第5話

 黒い森にいる限り、ナギの意を左右する人間などいないはずだった。

 そこにいる限り、彼女の左腕はどんな存在も凌駕するからだ。

 本来ならば、そうであるはずだった。目の前にいるこの華奢な体つきの青年など、呼吸をするように一ひねりに消し去ることができるはずだったのだ。

 左腕の中心から、疼くような、うねるような異物感が、全身に這いだしてくる。四肢をばらばらに引き裂かれるような痛みだ。

 最初に、ドゥッラがワンをナギの目の前に連れてきたとき、ワンを怒りのままに鞘で打ち据えてから、ずっと続いている苦痛だった。あの白昼夢で老婆がナギにかけた制約であることが直感でわかった。この男を殺してはいけないのだ。ナギが彼を、彼の目指す場所へ連れていくまでは。

 それは、月がひとつではなくなって以降、ナギにとって最も理不尽で腹立たしいことだった。

「誰がお前の指図など受けるか!」

 ナギは感情のままに怒鳴りつける。ワンは頬を腫らし、唇の端から血を滴らせながらも、ナギから目を逸らすことなくまっすぐににらみ返してくる。

「誰か、こいつを担いで連れて行け!」

「ナギ」

 ドゥッラの声が割って入った。

「この男を担いで移動するのはさすがに骨が折れる。王子殿の提案を聞いてやれないか」

 感情の見えない、淡々とした声だった。

 ワンはナギから尚も目を逸らさない。灰色の瞳に怒りの感情が滾っている。

 ナギは歯を食いしばり、目を閉じてゆっくりと息を吐き出す。手にしていた剣を投げ捨てると、左腕に意識を向けた。

 黒い森の深部に、潜っていく。池に落ちた色水のしずくが、波紋を作りながら徐々に色を失っていくように、自分自身が広い空間に溶け込んでいく感覚だ。

 ナギの左腕ではいつも、黒い森の一部と、自分自身の一部が混じり合い、同時に拮抗して存在している。ただ念じるだけで、この呪われた地のすべてがわかるのだ。

 次の瞬間、ナギは木の死骸に飲まれたを捜し当て、引き上げていた。

「――ッ!」

 ワンの息を飲む声が、地面に叩きつけられるサシャの音でかき消される。

 突然目の前に少年が現れたことに驚いたのだろう。

 ナギ以外の人間には、今ここにある以外の世界は目視も感知することもできない。何もない空間から、前触れなく人が現れたように見えたはずだ。

「カハッ……ゲホッ……」

 ワンと同様、サシャは「木の死骸」に埋もれている間に呼吸器系を害したのか、地面に突っ伏して苦しげに咳込んでいる。それを一瞥すると、ナギは未だ地面に座り込むワンを見下ろした。

「これで満足か。早く立て」

 目を見開いてサシャの様子を見ていたワンが、我に返ったように立ち上がる。サシャに駆け寄って、背をさすっている。

 そもそも黒い森に来てから、ナギを含めたこの集団にろくな目に遭わされていないはずなのに、何故このように少年を庇い立て、気にかけるのか。

 全く理解のできないワンの言動に、ナギの苛立ちはますます募る。一刻も早く視界から追い出したかった。

 背を向けて歩き出そうとしたのと同時に、ワンが声を上げた。

「――首長殿」

 サシャを助けろとわめいていた先ほどまでとは違う、落ち着いた柔らかい声音だった。

 大きくため息をつき、振り返る。

 ワンは胸元に右手を当て、軽く頭を下げていた。どこかで見たことのある所作だと思ったが、咄嗟に思い出せない。

「サシャ殿を助けてくださったこと――ありがとう」

 ナギは思わず眉をひそめた。怒りで頭に血がのぼっていた少し前なら、咄嗟に怒鳴りつけていただろう。自分の立場を利用して、ナギを脅したのは、そちらではないか――と。

 だが言葉にする気力もなく、ナギは黙って再び黒い森を歩き出した。


「サシャ殿、立てるか?」

 声をかけながら、ワンはうずくまる少年の背中に手をかざす。

 改めて傍で見ると、本当に幼いと思った。15、6歳ほどだろうか。ワンの祖国アキツマでは、田畑を耕す平民や、物を売り買いする商人であれば、親に習いながら大人としての仕事を覚え出す頃で、貴族階級に属するものであれば、まだ勉学や武術の鍛錬に励んでいる年齢である。

 サシャはワンの声には答えず、ひきつるような呼吸を繰り返している。

 ナギはこちらの様子に構うことなく歩みを進めている。幾人かの男はワンたちを置いてそちらに着いて歩きだし、離れていく。ドゥッラは黙ってワンとサシャを見下ろしていた。その視線に気づいたワンは、サシャの背をさすり続けながら、声をかける。

「ドゥッラ殿」

 ドゥッラの無表情な瞳の上で、眉がほんの少しだけぴくりと動いた。

「先ほどは、首長殿への口添えをしてくれ、助かった」

 引き結ばれた唇が動く気配はない。何も答えが返ってこないと見て、ワンは視線をサシャに戻した。

 早くサシャを連れてナギに追いつかねばならない。せめて肩を貸せば歩けるぐらいには、楽にしてやるしかないだろう。

 ワンは背をさすっていない方の掌を、サシャの顔の方へ回し、目を閉じるように誘導した。今日はこの力を使いすぎているが、避けられない。自身も目を閉じる。

 アクツマの王族として生まれたときから、彼はどのようなときでも、必要な情緒を瞼の裏に呼び出すことができるよう、鍛錬をしていた。

 初夏の昼下がり。静かな心地よい日差しの下の、さわやかな風にさらされる。ワンの最も心の落ち着く情景の記憶から、安楽の感情を引き出すと、それは掌を通して、サシャの中へ通じていく。

 程なくして、サシャの荒い呼吸が落ち着き始めた。根本的な身体の損傷が治ったわけではないが、それはワンも同じだった。

「立てそうか、サシャ殿」

 もう一度問いかけると、サシャは今度は、声は出さないがこちらに目を向けた。泥に汚れ、汗にまみれた浅黒い顔の中に、鋭い目つきが光っている。無防備な怒りの感情。そこにワンはまた、幼さを感じた。

「とりあえず、歩こう。肩を貸す」

 脇に腕を差し入れる。ふらつきながらもサシャは立ち上がる。異形の地を放浪する無頼者の集団の一員にしては、細身で頼りない体つきにも思えた。ワン一人でも十分に支えられそうだ。

 ドゥッラは黙ってその様子を見ており、手を貸す気配もない。

 ゆっくりと歩き出す間にも、ナギ達の背中が遠ざかっている。

「……王子殿」

 動き出したワンとサシャの後ろを歩きながら、ドゥッラが声をかけてきた。ちらりと後ろを見やる。こちらを見つめる表情に、相変わらず感情が見えない。

「さっきは俺が間に入る形になったが、今後はこれ以上、ナギを刺激しないでいただきたい」

「刺激……というと?」

 ワンの信念であったとはいえ、ドゥッラの仲間の意志を面と向かって否定したのだ。気分を害したであろうことは予想できていた。だが、ワンは敢えてとぼけて聞き返した。

 ナギならすぐに激昂しただろうが、ドゥッラは何の反応も示さずに淡々と続ける。

「我々はナギへので繋がっている、集団ともいえない関係だ。その前提を崩さないで欲しい」

「ふむ……」

 ナギの異様に横柄な言動の理由が、説明された気がした。

 彼女の特殊な力と高圧的な態度で、無理矢理に男達を統率しているのだ。サシャを見捨てることにためらいがなかったのも、他の男達への脅しを兼ねて、普段からそんなことを繰り返していたからだろう。

 ワンの肩にもたれたサシャが、浅い呼吸を繰り返している。華奢な身体は軽かったが、生きている人間の確かな重みと温もりがそこにあった。

 自分の価値観にそぐわない他者の信念や、他の国や集団の慣習を、むやみに非難することは、ワンの意図することではない。時には相手が信じ、守ってきたものを尊重し、自分を譲ることも必要だというのは、いずれ王になる者として教育を受けてきたワンが、師に授けられた者の中で最も尊い考え方だと思ってきた。

 ただし、これは、違う。

 ナギたちとは、一時的に旅路を同じとしただけの、刹那的な関係だとしても、だ。

「――考えておく」

 ドゥッラにはそう短く答えながら、ワンは小さくなったナギの背中を見つめた。

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