第4話
腕を捕まれる感触とともに、凄まじい重さが全身にのし掛かった。四肢が引き裂かれるようだ。それはほんの一瞬のことで、気づけばワンは、急激な浮遊感に眩暈を覚えると同時に、体を固い地面に叩きつけられていた。
頭上から冷ややかなナギの声が降ってくる。
「警告してやったのに逃げ遅れるな。次はないぞ」
「う……カハッ」
呼吸をしようとして、激しく咳込んだ。胸の骨が折れたのかもしれない。
ワンは地面に伏せたまま、もう一度、慎重に息を吸って吐く。
何が起こったのか確認したいのに、身動き一つとれない。狭い視界で辛うじてわかるのは、ここが、あの不可思議な現象が起こる前に立っていた場所とほとんど何も変わらない、黒い森の中だ、ということだけだった。
――あの土色の塵に溺れかけたのは、夢か幻だったのか?
いや、そんなはずはないと、全身が悲鳴を上げながらワンに訴えかけてくる。
何もかもが解せない状況だった。
「もう降りても平気か?」
男の声が聞こえる。ドゥッラと言っただろうか。ナギと男たちの繋ぎ役をやっている男だ。落ち着き払った声は、ナギよりも遠く、高い場所から響いてきた。
声を出さずにナギが問いかけに答えたようだった。複数の人間の気配が、一気にワンの周辺に近づいてきた。
軽やかに身をこなす男たちの足音は、耳を澄ませばわからないほど小さい。状況から推測するに、男たちはあの塵の雪崩から逃れるために、周辺の木に登っていたのだろう。
「立て、もう行くぞ」
感情の見えない声で急かすナギに、ワンは歯を食いしばる。焦って息を吸おうとすると、濁った音が鳴る。胸や脚のいくつかの骨が損傷を受けたのは明らかだった。
――この力はできるだけ使いたくなかったが……
ワンは右手を痛む胸元に当てる。瞼を閉じ、意識を集中する。身体の節々の氣が徐々に解放される。
「――おい、早くしろ」
「う……くっ……」
突然わき腹を軽く蹴られ、ワンは呻きながら転がる。激痛が肺から全身に走る。
「ナギ」
仰向けにさせられたことで、自分を蹴ったのがナギで、そこに割ってはいるようにして声をかけたのがドゥッラであることが視認できた。
「怪我をしていて立てないんじゃないのか」
ドゥッラの指摘に、ナギが苛立たしげにため息をついた。
「捨てていくか?」
淡々とした口調でドゥッラがそう尋ねるのを聞いて、ワンは焦った。このまま一人この黒い森に残されれば、ワガノア王国へ行くどころか、生き延びることすら危うい。
先ほどの奇怪な現象が再び起きたら、今度こそ命はないだろう。
何かを言葉にしなければ、と、ワンが口を開くと同時に、ナギが今度は小さく舌打ちをする。
「――それはだめだ」
苦々しく、ナギが吐き捨てる。
その様子を横目で見ながら、ワンは深く息を吸って吐いた。肺と肋骨の損傷が徐々に修復できているのを感じる。
ナギの様子から、彼女がある種の葛藤を抱えていることがわかった。ナギがワンのことを気にくわないと感じているのは、最初からわかっていた。本音ではここに捨てていきたいのだろう。だが、ナギにはワンをワガノアまでつれて行かねばならない何らかの事情があり、彼を見殺しにはできないのだ。
ワンも、この集団に、ナギに、ここで見放されては困る。必ず生きてワガノアたどり着き、叔父に会わなければいけないのだから。だからといって、ナギに対して卑屈なほど
「誰か、こいつを担いで運べ」
「――いや、それには及ばない」
ナギの言葉を遮るように言うと、ワンはゆっくりと体を起こした。上半身は問題がない。あとは右足の痛みだけ和らげれば、歩行はできそうだった。
周囲の人間に感づかれないように、ワンは右手を大腿にかざし、意識を拡張する。
「少しだけ時間をくれ。呼吸が落ち着けば自力で歩ける」
「少しだけだと? 待っていられるか。手間を取らせるな」
「しかしそなた達に担がれるよりは――」
ワンがナギの言葉に反論しようとしたときだった。
「た、たすけてくれ……!」
掠れた悲鳴が聞こえた。若い男の声だった。
「今、誰かの声が……」
ワンは声の主を捜して、思わず辺りを見回す。ワンの周辺に集まっているナギと男達は、表情ひとつ変えていない。
「サシャがいないな」
「ああ……本当だ」
辺りを軽く見回したドゥッラと、男の一人が言葉を交わす。
男達の顔と名前をワンはまだほとんど覚えていなかったが、この男達の中で一番若い小柄な男が、サシャと呼ばれていたのを思い出した。もう一度見回すと、確かにその男の姿はどこにもない。
「さっきの……あれに、巻き込まれたのか?」
自分と同じように、あの迫り来る塵から逃げきれず、押しつぶされたのだろうか。その問いに、ドゥッラが眉一つ動かさず小さく頷いた。
「助けないと――」
「どうでもいいだろう、はやく立て。また蹴られたいか?」
その言葉に驚き、瞠目して、ワンはナギを見上げた。
「どうでもいいとは、どういうことだ」
ナギが眉をひそめている。ワンはひどく困惑した。
ナギがワンを気にくわないから、本音では足手まといになるぐらいなら捨てていきたいのは、まだ理解ができる。自分はこの集団にとっては部外者だ。ナギの警告の意味もわからないほど、黒い森について何も知らない。
しかし、今どこかで助けを呼んでいるサシャは、ナギの部下であり、仲間ではないのか――それも。
ワンはサシャの姿を思い浮かべる。少年と言って良いほど幼かった。年若く未熟な者を助け、導いてやるのは、ワンの故郷では年長者の重要な務めだった。自身が助かり、同じ目に遭う年少者に手を差し伸べないのは彼の信義にもとることであり、受け入れられなかった。
「サシャ殿を、助けるべきだ」
ナギが目をつり上げる。
「状況がわかっていないのか? お前は私に指示を出す立場ではない」
「指図しているわけではない。仲間を見捨てるべきではないと、同行者として進言している。そなたなら、私にしたように、サシャ殿を助けられるのだろう?」
「必要がない。行くぞ」
吐き捨てるように言うと、ナギは踵を返し、歩きだそうとした。
ワンは胸の内に、燃えさかるような、憤りの感情が湧いてくるのを感じた。
彼の脳裏を過ぎったのは、救えなかった故郷の民達だった。己の無力さに歯噛みし、しかし大儀のために、一人ここまで逃れてきた。
祖国を再興するため、この旅路の中で、犠牲を伴うことも厭わないつもりでいた。しかしここで、今助けを求める少年を見捨てることは、想定していた「必要な犠牲」とは違う。
この集団の長であるナギが、サシャを救わずにここを立ち去ることに、同調するわけにはいかない。
「サシャ殿を助けないのならば、私はここから動かない」
毅然としてそう言い放つと、ワンはその場に胡座をかいた。背筋を伸ばし、こちらを振り向いたナギの顔をまっすぐに見つめる。すでに脚の痛みは意識から追い出せていた。
先ほどまでの気だるさと苛立ちの入り交じった表情から一変して、女の面には明らかな激しい憤怒の感情が浮かんでいた。
「気が触れたのか」
「私は正気だ。そなたが自分の仲間を責任を持って救うまで、私はここから動かない」
「ふざけるな……!」
ナギが腰に佩いていた剣を鞘ごと取り、こちらに歩み寄ってくる。出会った時と酷似した状況だった。違っているのは、あの時は後ろ手に縛られ抵抗できぬようにされていたが、今のワンは、これからあの鞘で打ち据えられることをわかっていながら、自分の意志でそれを受け入れようとしていることだった。
「私がいなければ、そなたも困るのだろう」
挑発のつもりで、静かにワンがそう言い切ったのと、頭部に衝撃が走ったのは同時だった。
よろめいたが、倒れ込まずに済んだ。口の中から流れ出た血を手の甲で拭いながら、目の前に立つナギを見上げる。
研ぎ澄まされた剣のような鋭い視線が、ワンを射る。ワンもそれに応じる目線を返す。
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