第107話 【9月下旬】火乃香とバイトと擦れ違い⑫(※)

  「――兄貴を、わたしだけの兄貴にしたい」


微睡まどろむような声でささやけば、火乃香はまぶたを下ろして唇をすぼめた。

 ゆっくりと静かに顔を近付ければ、再び口付けを迫る。

 だが俺は火乃香の両肩を押して、無理矢理と彼女を引き離した。


 「……兄貴?」

「ごめん火乃香。お前の気持ちは、すごく嬉しい。だけどやっぱり……応えるてやる事は出来ない」

「なんで……どうして?」

「分かるだろ……お前が俺の義妹いもうとで、俺はお前の義兄あにきだから」


絞り出すように答えながら、俺は正面に火乃香を座らせた。同時に彼女の黒く長い髪を撫でて、肩に布団を羽織らせる。

 大人びたスタイルとは裏腹に、火乃香は幼い子供みたく足を崩して座り、不安気に俺を見上げている。

 そのいびつな佇まいが、チクリと俺の胸に針を刺した。


「もしも俺がお前に手を出せば、お前と肉体関係を持っちまったら……それが世間にバレたら、その瞬間に俺達の生活も後見人こうけんにん関係も終わっちまう」

「そんなの……バレなきゃいいじゃん」

「それは……無理だ。たぶん」

「どうして!」


いぶかしく眉根を寄せながら、火乃香はつっけんどんに尋ね返した。

 怒気を孕んだ声とは裏腹に、目尻には薄っすらと涙が浮かんでいる。

 その透明な雫が、研がれた刃みたく俺の心を切り刻んで。


「俺の事を……俺達の関係をよく知る人間にはきっと微妙な変化を悟られる。口には出さなくても、その違和感はいずれ確信に変わる」

「それ、泉希さんのこと言ってるの?」

「……」


頭の中を見透かすような火乃香の一言に、俺は何を返す事も出来ず顔を伏せた。

 だがそれさえも火乃香に読まれているような気がして、恐る恐ると頷き返す。


「もしも泉希にバレたら、アイツはきっと俺を軽蔑する。そうなったら、まず間違いなく薬局も辞めるだろう。

 何度も言ったけど、ウチはアイツが居ないと成り立たない。薬剤師じゃない俺は、薬ひとつ出せないから」


渇いた笑みを浮かべながら俺は指先で頬を掻いた。

 自分で言って、情けなくなった。

 泉希に全部背負わせて、俺だけでは何も成せない無力さに。

 偉そうに「後見人」なんて言いながら、火乃香一人も養う事が出来ない現実に。


 けれどそれが、変えられない俺の人生。

 俺の選び歩んできた道の結果。

 紛う事の無い、朝日向あさひな悠陽ゆうひという人間。


 それら全てを痛むほどに奥歯を噛み締め、火乃香と真っ直ぐに向き合った。


「そうなれば俺は収入が途絶える。お前を養うことも出来なくなる。当然、保護者の権利も失う。お前は……それでもいいか?」

「……ヤダ」


苦虫を嚙み潰したように、火乃香はゆっくりと首を左右に振る。

 火乃香の目尻に浮かぶ涙が、その量を増した。

 今にも溢れ出しそうな涙に呼応するよう、俺も「ふむ」と息を吐いた。


「俺だってお前と離れ離れになるのはイヤだ。出来ることならお前が成人するまで、お前が大人になる時まで見届けてやりたい。だから……分かってくれ、火乃香」


嗜めるよう言いながら、俺は火乃香の黒い髪を撫で、そっと静かに抱き締めた。

 しかしあろうことか、今度は火乃香から押し返される。

 見れば、溢れそうな程に涙を溜めた火乃香が、怒りと悲哀を交えた様相でギロリと俺をにらみ据えて。


 「分かんないし、そんなこと! なんで好きな人に好きって言っちゃダメなの! なんでわたしの好きな人が……兄貴なの!」

「火乃香……」

「諦められない! 諦めたくない! いまさら兄貴のこと好きじゃなくなるとか、そんなのわたしには無理だし!」


ポロリ、ポロリ。いよいよ火乃香の目から涙が零れ落ちた。

 かと思えば、肩に掛けた布団を振り払って勢いよく俺に抱き着く。

 再び晒された火乃香の柔肌が、俺の体にピトリと吸い付いて。


 「わたし、兄貴と結婚したい。兄貴の一番になりたい。ずっとずっと……兄貴の隣に居たい」


背中に回した腕にぐっと力が込められて、俺の胸板が熱く濡れる。

 ぐすぐすと涙鼻を啜る音が聞こえたかと思えば、大粒の涙が火乃香の双眸そうぼうから零れ落ちていた。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


最近はまた暑くなってきたわね! 制汗スプレーと汗拭きシートが手放せないわ!

皆様も体調管理には充分気を付けてね!


次回は7月26日(金)の投稿予定です!

また少し期間が空いちゃうけど、良ければ待っててね!

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