第101話 【9月下旬】火乃香とバイトと擦れ違い⑥
「――あるよ、証拠なら」
けれど火乃香の放ったその一言に、俺は希望の光を見出した。
「証拠って、どこに?」
「ここ」
淡々と答えながら、火乃香はポケットから携帯電話を取り出した。
見ればアプリケーションが起動して、数字がカウントされている。
「ずっと録音してた。わたしにセクハラした時の状況も、今の状況も」
「え?」
「それに、あの防犯カメラも偽物だし。この前先輩が『店長に取り付けさせられた』って、わたしに愚痴ってた」
横目で天井のカメラを睨む火乃香に釣られて、俺も同じく視線を上げる。
さっき感じた違和感は、あれがイミテーションだったせいか。道理でこれみよがしな外観をしていると思った。
店長の男も、あからさまに焦りの色を浮かべ視線を泳がせている。
大方、自分の店の従業員に不信感を
なんだか……可哀そうになってきた。
「けど、ここで何が起きても証拠は残らないな」
コキコキと首の骨を鳴らして、俺は男に近付いた。
粘り気のある汗を浮かべながら、男はわなわなと背筋を震わせる。
男の眼前に立つや、俺は血の滲む右手を勢いよく振り上げた。
「わあああっ! ごめんなさいごめんなさい! 謝りますから殴らないで!」
ピタリ、
ぎゅっと固く目を閉ざしていた男は、恐る恐ると
殴られていないと分かり、ほっと胸を撫で下ろしている。
けれど実は、彼よりも俺の方が安堵していた。
どんな理由があろうと、暴力が許される筈は無いのだから。
かといって舐められる訳にもいかない。
弱みを見せれば、また付け入られるかもしれないのだから。
ゆっくりと拳を引き、俺はへたり込む男の眼前に屈んで
「おい、履歴書」
「……ふぇ?」
「火乃香の履歴書、返せ」
「そ、それは……あの……」
「さっさとしろ!」
ドゴンッ! 男が
拳から染み出る血が、凹んだ金属板に薄っすらとこびり付く。
男は慌ただしく立ち上がると、全く整頓されていないデスクに向かった。
ガサガサと忙しなく、机の中上やレターケースの中を掻き回している。履歴書みたいな個人情報書類を、すぐに取り出せないだなんて。
呆れながら男の背中を見守っていると、数分して漸く書類と引っ張り出してきた。なんという
「火乃香、雇用契約書は?」
「え……なにそれ」
「ここに就業する時、契約書を書いただろ?」
「ううん、なにも」
キョトンとした様子で火乃香は首を振った。
まさか雇用契約書も無いだなんて。
溜め息混じりに男を振り返れば、バツが悪そうに顔を
なんだか急に馬鹿馬鹿しくなった。
さっきまでの怒りもすっかり消沈している。
俺は「はぁ」と大きく溜息を吐いて、男に背を向けた。
「バイト代は要らない。その代わり二度と火乃香に関わるな。もしまたお前を見かけたら、その時は今日みたいに中途半端では終わらせない」
ギロリと睨み釘を刺せば、男は無言のままコクコクと首を縦に振った。
踵を返し呆ける火乃香へ履歴書を手渡せば、俺はもう一度振り返り
「警察に行きたければ行けばいい。刑務所に行こうと、地獄に落ちようと構わない。だけど、その時はお前も道連れだ。俺の家族に二度と舐めた真似が出来ないように、徹底的にやってやる」
トドメとばかりに俺は「分かったな」と吐き捨てた。
男は唖然とした様子で、3度首を縦に振った。
「いくぞ、火乃香」
「え……あ、うん」
パイプ椅子に腰かけていた火乃香の手を引き、俺達は早々と店を後にした。
男は追いかけてくる様子もない。
レジ前で先程の仏頂面な店員とすれ違った。
けれど、特に何を言われるでもなく興味も無さそうだった。
一言の会話も無いまま、俺達は最寄りの駅へ向かった。
改札を潜って、長い階段を上がる。
ホーム中央に設置されているベンチ。
どかり、とそこに腰を下ろした。
「あー、怖かった!」
途端、緊張の糸が一気に
腹に溜まった空気を吐き出せば、それと同時に全身からドッと汗が拭き出した。
今頃になって緊張と恐怖で手が震えだす。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭うと、赤く腫れる右手が痛んだ。
「ちょっと待ってて」
言うが早いか、火乃香は傍にある水道へ走った。
冷たい水でハンカチを洗い絞ると、そのまま俺の右手に巻いてくれた。
ヒヤリと冷たい感触が、傷んだ拳に心地良い。
「……ゴメンな、火乃香」
「なんで謝るの」
「お前がツラいことに、気付いてやれなくて」
「違う。わたしが兄貴の言うこと聞かずに、焦ってバイト決めたからだし……本当はあの店がヤバそうなのも分かってたのに」
申し訳なさそうに視線を伏せながら、火乃香はハンカチを優しく縛ってくれた。
「ありがとう。悪いな」
「お礼言うのは、わたしの方だし」
「俺は何もしてないよ。実際お前の録音が無かったら、俺は本当に刑務所行きだったろうから」
「それもあるんだけどさ……」
「他に何かあったか?」
「わたしのこと、信じてくれたから」
「そんなの当たり前だろ。お前は俺の
左隣に座る火乃香の頭を撫でてやるも、彼女は顔を伏せて素っ気なく「……そう」とだけ呟き、俺の肩にそっと頭を乗せた。
「火乃香?」
「ごめん。ちょっと疲れちゃった」
そう言って、火乃香はそっと俺の手を握った。
言葉は、それ以上
電車の到着を知らせるメロディが流れた。
けれど火乃香は立ち上がろうとしない。
電車が目の前に停車する。
だけど俺と火乃香は、ベンチに座ったままそれを見送った。
「行こう」とは言わなかった。
言いたくなかった。
この
-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------
悠陽はおバカだから周りが見えてないけど、火乃香ちゃんは冷静沈着ね! 何はともあれ、二人が無事で良かったわ!
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