第100話 【9月下旬】火乃香とバイトと擦れ違い⑤
――ドゴォオオォッ!!
いや、その表現は正しくない。
正確には俺が響かせたのだ。
薄汚れたロッカーは『く』の字に折れ曲がり、不恰好にひしゃげている。
無惨なロッカーの変わり様に、店長を名乗る男も
だが構うことなく俺は男の元へと近付き、強引に胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「謝れ」
「……へっ?」
「火乃香に謝れって言ってんだ!」
鼻が触れ合いそうな距離まで男の顔を近づけ、俺はこれでもかと怒号を放った。
眼鏡の奥にある目玉を見開いて、男はわなわなと打ち震えている。
黄色く汚れた歯も小刻みに噛み鳴らして。
「火乃香は俺の
沸き上がる怒りと後悔が、俺の声を
抑えきれない感情が、右手に拳を握り込ませる。
ロッカーを殴ったせいで拳から血が滲み出す。
それでもなお握り込んだ拳からは、ギリギリと骨の
不気味な音と鮮血に、男は青ざめ「ひいぃっ」と奇声を上げる。
俺の中の苛立ちは、一層と加速した。
「火乃香は毎日頑張ってた! 俺との約束を守ろうとしてくれた! 辛い事があっても必死に堪えて我慢してたんだ! アイツは立派だ……誰よりも優しくて思いやりのあるヤツだ! そんな火乃香を……俺の義妹を侮辱してんじゃねぇ!」
思いの丈を叫んだと同時、俺のボルテージは最高潮に達した。
思考のフィルターを通さず放たれた声。
我を忘れて俺は拳を振り上げた。
赤く擦り切れた拳から血が滲んで飛び散る。
だけど掲げた右手を振り下ろす刹那。
視界の端に火乃香を捉えた。
驚きとも恐怖ともつかない複雑な表情で、義妹は俺を見つめている。
その姿が、俺に理性を呼び戻してくれた。
ここで俺が暴力を振るっては、それこそ火乃香の頑張りを無駄にしてしまう。
火乃香のビンタは許されても、俺の拳は許されるものではない。
間違いなく暴行罪だ。
どころか既に器物破損の現行犯。
これ以上やれば、火乃香との暮らしが終わるかもしれない。
「……チッ!」
眉間に皺を寄せて大きな舌打ちをかまし、俺は男を放り捨てるように突き放した。
男はヨタヨタとよろめき、
足に力が入らないのか、ロッカーに背を預けたままズルズルと尻餅をついて。
トドメとばかり、俺は
「さっさと謝れ。義妹に」
「けっ……けど俺、顔、痛かったし……」
「自業自得だろ」
「そ、それは、でも……あ、そ、そうだ証拠!」
「あぁ?」
「え、あ、その……しょ、しょ証拠はあんのかよ、証拠は! 俺がセクハラしてたっていう証拠!」
「お前……火乃香が嘘吐いてるって言うのか!!」
「ひぃっ……! い、いやでも……証拠……」
尻すぼみに視線を泳がせながら、男は額に大量の汗を浮かべる。
火乃香が嘘を吐いているとは思わない。
だけど確かに証拠はない。
脅せば
けれ、それではこの男と変わらない。
俺は何も言えずに閉口した。
そんな姿に男は何を感じたか、
「な……無いだろ証拠! 無いよな! けどお前らの暴力行為とキブツハソンは、その防犯カメラがしっかり録画してっかンな! 警察に行って、お前ら兄妹のやったこと全部バラしてやっかンな!」
震える指先を少しだけ動かし、今度は俺の後ろを指し示した。
見れば防犯カメラが吊り下げられている。
随分と古臭い、いかにもな形状のカメラだ。
まるで『ここにありますよ』と誇示しているかのような違和感だ。
「こ、こここれでわかったろ! だ、だけど俺も鬼じゃァないからな! 殴られた慰謝料と治療費と、あとロッカーの修理費……合わせて300万で許してやらァ!」
形勢逆転とばかり、男は再び声を荒らげる。
反して俺は反論できずに押し黙ってしまった。
その姿に勝利を確信したのだろう、男は半歩前に出てほくそ笑んだ。
だが、その時だった。
「あるよ、証拠なら」
火乃香の声が、剣呑な空気に震えた。
-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------
ああ……とうとうやっちゃったわね、悠陽のヤツ。普段は温厚なんだけど、身内の事となるとカッとなるのよね。以前にも私や派遣社員の子が患者様から暴言を吐かれたとき、悠陽が怒ってトラブルに発展した事があるの。
そういう所はちっとも学習しないんだから……。
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