第99話 【9月下旬】火乃香とバイトと擦れ違い④

 「――わたし……殴った。その人のコト」


俺の想いとは裏腹に、火乃香は力無く項垂うなだれたまま答えた。

 その瞬間、俺は全身の血が抜け落ちるような感覚に見舞われた。


 まさか火乃香が人を殴っただなんて。


 「裏切られた」とか「信じられない」なんて言葉では到底表せられない。

 絶望と悲痛が、俺を地獄の底へ引きずり込むかのようにまとわりつく。


 「見ろ! 人を嘘つき呼ばわりしやがって!」


愕然がくぜんとする俺を他所よそに、店長と名乗る眼鏡の男はとばかりに声を荒らげた。

 よほど昂奮こうふんしているのか、男は声を震わせ僅かに上擦らせている。


 「お前いったい本当どういう教育してんの! 人の顔殴るとかマジありえねぇし! もし自分が同じ事された時の気持ちとか考えてみろよな!」


畳み掛けるような言葉の嵐に、俺はただ黙って受け止める事しか出来なかった。

 パイプ椅子に腰かける火乃香もまた、否定も弁明もせずうつむいている。

 だが悲痛や後悔の念が感じられない。

 まるで何かをこらえているようにさえ見える。

 そのせいだろうか。

 火乃香が暴力を振るったという言葉が、全く耳に入ってこない。

 俺はぐっと固く拳を握り、半歩だけ火乃香の方へ歩み寄った。


「火乃香。もう一度聞くぞ。本当に殴ったのか?」

「……うん」

「どんな風に」

「あの人の顔、平手で」


視線を下げたまま火乃香は眼鏡の男を指差した。

 『殴った』と言うから、てっきり拳でのかと思った。もちろん平手であろうと、許される行為ではないけれど。


「なんで、そんな事したんだ?」

「それは――」

「ゴ、ゴチャゴチャうるせェなオマエらよ! 今そんなこと関係ねェだろ! ビンタだろうと暴行はボーコーなんだよ!」


火乃香の言葉を断ち切るように男が怒鳴った。

 あまりにも乱暴な振る舞いに、俺の中の違和感が一層と増す。

 ジトリと斜めにめ付ければ、男は半歩だけ後ろに下がった。


 「な、なんだよそのツラはよ……いいからサッサと謝罪しろよ謝ざ――」

「謝らなくていい」


その時だった。

 火乃香の一言が、男の暴言をき止めた。

 意表を突かれたのか、男はヒュッ……と声を飲み込んで。


 「確かにわたし、ビンタはした。けどそれは、その人が何度もしつこく呑みに誘ってきたからだし」

「そ、それは……が、頑張ってる店員をねぎらおうとしただけで……」

「わたしは『未成年だから』って何度も言った」


火乃香は顔を上げて男を睨んだ。

 ギクリという擬音が聞こえそうな程、男は明らかに尻込みしている。


 「それだけじゃない。誘いながら何度もわたしの肩とか腰とか触ってきた」

「あ、いや……」

「わたし、今までずっと我慢してた。でも今日はだったから……どうしても我慢できなくて、思わず手が出てた」


バツが悪そうに視線を伏せ、火乃香は消えてしまいそうなほど細い声で告げた。

 驚きとも怒りともつかない感情が、腹の奥底から湧き上がってくる。

 ゆっくりとした動きで俺は男を振り返った。

 先程より鋭利に男を睨み据えれば、眼鏡がズレて大きく肩を震わせている。


 「う、嘘だ! 全部デタラメだ! 本当は仕事で俺に注意された腹いせに、そんなデマカセ言ってんだソイツは!」

「でまかせ?」

「そ、そうだ! つーか女はいいよなマジで! 痴漢とかも女がちょっとワーキャー騒げば、エンザイでも実刑になるだろ! それにソイツ学校辞めてんだろ! そんな教育もマトモに受けてないようなガキが――」


まるで壊れたラジオのように、男は細かい汗を浮かべてがなり立てる。


 だけど俺の耳には届かない。


 まるで閉ざされた空間に居るよう。


 音がシャットアウトされていく。


 意識が地面を離れていく。


 その直後だった。



 ――ドゴォオオォッ!!



雷鳴らいめい思わせる轟音ごうおんが、狭い室内に響き渡った。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


今の時代に限った事じゃないけど、セクハラは本当にダメよね。自分ではセクハラと思っていない行為でも相手にとってはセクハラだったりするから、言動には充分気を付けないとね! 

ウチの悠陽はそういう所だけはしっかりしているから私としては複雑だけど……。

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