第97話 【9月中旬】火乃香とバイトと擦れ違い②
「――バイト、決まったから」
「……え?」
というのも、今日までの数日間。俺達の間に会話らしい会話が無かったからだ。
朝も夕も食事は一緒に
どれだけ俺が遅くなろうとも、火乃香は食べずに待っていてくれた。
だけど会話は無く、視線も合わせなかった。
朝の出勤時には玄関まで見送ってくれて、昼飯の弁当も持たせてくれた。
おかずのレパートリーも普段と変わらなかった。
むしろ以前より豪華になったようにさえ思う。
だけど……『行ってらっしゃい』の言葉は掛けてくれなかった。
だから、たったの一言でも嬉しかった。
火乃香から声を掛けてくれた事が。
火乃香の声を聞けたことが。
火乃香と会話ができる事が。
「んんっ」とひとつ咳払いをして、俺は精一杯の満面の笑みを作ってみせる。
「おめでとう、火乃香。やったな」
「……うん」
「どこに決まったんだ?」
「2駅隣の◇◇カフェ」
「飲食店か。キッチン?」
「ううん。ホールスタッフ」
「……そうか」
それしか言葉が出てこなかった。
なんと言えば良いかわからなかった。
だけど何か言わなければいけない気がした。
その結果だった。
そんな思考を見透かしたように、火乃香は「はぁ」と小さく溜息を吐いた。
「いいよ、無理しないで。別に落ち込んでるとか無いし。そもそも、わたしなんかを雇ってくれる所なんて他に無いんだからさ」
「そんなことはない。今回は、ちょっと運が悪かっただけだ」
「そういうの、もういいって」
目線も合わせず淡白に言うと、火乃香は食べ終えた自分の皿を下げた。
久しぶりの会話は、たったの2分で終わった。
それから3日後のことだった。
火乃香のバイト生活がスタートした。
火乃香は朝から憂鬱そうで、いつも以上に口数が少なかった。
初めての飲食業だし、きっと不安なのだろう。
それにしても、採用から仕事開始までのスパンが少々短い気がする。
今時のバイトはそんなものなのか。
それとも、もっと前に採用されていたけど火乃香が俺に言わなかっただけなのか。
兎にも角にも、今は火乃香に笑顔が戻る事を祈るばかりだ。
そうしてバイト初日の夜に帰宅すると、部屋の中は真っ暗闇だった。
まだ帰っていないのかと明かりを点ければ、奥のベッドで火乃香がスヤスヤと寝息を立てていた。
よほど疲れているのだろう。はだけた布団を掛け直しても起きる気配さえ見せず、火乃香はずっと夢の中にいた。
バイト開始から3日目。
見慣れない服が壁に掛かっていた。
火乃香のバイト先の制服らしい。
胸を強調するようなエプロンに、かなり丈の短いスカート。
可愛らしいユニフォームではあるが、普通の店に比べて露出が多いように思える。
保護者として気分の良い物ではないが、火乃香が着れば似合うのは間違いない。
少し前までの彼女なら、新しい服を買うたびに一人ファッションショーを開催してくれたものだが……それほど忙しいのだろうか。
バイト開始から7日目。
弁当の中身が簡素になった。
敷き詰められた白米の上に、漬物とスクランブルエッグが乗せられている。
バイトを始める以前は、肉や野菜など敷き詰められたバランスの良いレパートリーだったのに。
朝食や夕食も同様、食卓には冷凍食品や出来あいの総菜が増えた。
少し前まで「半額でも総菜は
バイト開始から10日目。
部屋が
まるで一人暮らしをしていた時のようだ。
火乃香がウチに来てからは毎日綺麗に掃除をしてくれていたから……なんだか空気も濁って見える。
おまけに飲食業だから夜シフトもあって、俺より帰りが遅くなる日もある。
必然と俺が食事の用意をする日も増えた。
扶養範囲内の勤務だから
そう自分に言い訳をして、俺は無意識に火乃香を避けていた。
気付けば俺達の生活は完全にすれ違い、会話の無い日々は続いてしまった。
それが間違いの元だった。
この時の俺がもっと理性的になっていれば――火乃香に歩み寄っていれば、あんな事件も起こらなかっただろうに……。
-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------
昼間は主婦さんやフリーターのパートさんが勤務しているから、火乃香ちゃんは夕方からの勤務が多いみたいね。飲食店だから土日の出勤もあるみたい!
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