第91話 【8月上旬】お盆休みと出雲旅行⑨

 「――ただいまー」


明るく間延びした火乃香ほのかの声に、俺と泉希はハッと我にかえった。

 揺蕩たゆたっていた意識が一気に現実へ引き戻される。

 咄嗟とっさに体を離して、俺と泉希は二人同時に湯の中へ身を沈めた。


 「あれー? 兄貴、お風呂ー?」


響く声に俺と泉希みずきはビクリと身を震わせた。

 一声も発していないのに、なぜ火乃香は俺が風呂に居ると分かるのか。

 当てずっぽうなんかじゃない。

 足音は徐々に近づいている。

 その答えはすぐに分かった。

 シャワーを出しっぱなしにしているせいだ。


 「兄貴ー、泉希さんはー?」


先程よりも火乃香の声が近くなった。

 恐らく脱衣所のすぐ目の前に居るのだろう。

 貸切風呂の件もあるし、火乃香なら普通に入って来る可能性もある。

 こんな現場を見られでもしたらだ。


「来る――」


『来るな』……と声を上げて、火乃香の侵入を牽制しようと考えた。

 だけど俺が言い終えるより早く、泉希が俺の口元を手で抑え込む。


 「ほ……火乃香ちゃん!」

「あ、あれ? 泉希さん?」


モゴモゴと口籠る俺に変わって泉希が声を張れば、素っ頓狂に戸惑う火乃香の声が返ってきた。


 「泉希さんが、お風呂入ってるんですか?」

「え、ええ! お酒飲んで汗かいちゃったから!」

「そっか……兄貴の声が聞こえた気がしたけど」

「き、気のせいじゃない? まだ帰ってきていないみたいだし!」

「あー、じゃあ大浴場の方行ったのかなー」


そう呟くいた直後、足音が離れていった。

 ほっと安堵に胸を撫で下ろしたのも束の間、泉希が勢いよく振り返り俺を至近距離でめ付ける。


 「私が火乃香ちゃん連れて外に出るから、貴方はその間に上がって!」

「わ、分かった……」


声を抑えているにも関わらず迫力ある泉希に、俺は気圧されうなずくより他になかった。

 ひとつ深呼吸をして息を整えると、泉希は静かに湯船から立ち上がった。

 泉希の白い尻が至近距離に突き出される。


「ちょ、ちょっと! 見ないでよ、おバカ!」

「は、はい!」


慌てて振り返るも、俺の脳内メモリーにはしっかりと記憶された。

 この記憶は当分のあいだ薄れはしないだろう。


 脱衣所からはドライヤーの音が聞こえてきた。

 化粧水をつけるような音も。

 何を呑気にしているんだアイツは。

 いや、慌てて出ていく方が怪しまれるか。


 20分ほど脱衣所で身形みなりを整えた泉希は、火乃香を外に連れ出すことに成功した。

 喜び燥ぐ火乃香の声が響き、同時にドアを施錠する音も届いて。

 

 俺はすぐさま風呂から上がった。


 体は温まったけど、疲れはまるで取れていない。

 溜め息混じりに身体を拭いていると、バタバタと慌しい足音が響いた。


 「よかったー、やっぱ携帯電話ケータイ忘れてたし」


恐らく火乃香が忘れ物を取りに戻ったのだろう。

 俺は脱衣所で息を殺して。

 嵐が過ぎ去るのを待ったのだ。

 すぐにまたスリッパの音が響いて、ドアを施錠する音が再び木霊する。

 生きた心地がしなかった。

 せっかく温まった体も、芯から冷えきって……。



 ◇◇◇

 


 室内風呂から上がり30分~40分ほどして、泉希と火乃香が満足気に戻ってきた。

 二人は『夜泣きそば』なる無料提供のラーメンを食べてきたらしい。

 俺が貸切風呂から出た事などすっかり忘れたかのように、火乃香は腹を擦りながら満面の笑みを浮かべてベッドに転がった。


 そのまま俺は窓際のベッドを、火乃香は通路側、泉希は真ん中のベッドを使うことになった。


 火乃香はともかく泉希も居るから、緊張で眠れるか不安だった。

 けれど存外、睡魔はすぐにやってきた。

 思ったより疲れていたのかもしれない。

 旅行も運転も久しぶりだったし、晩飯はたらふく美味いものを食ったし。

 風呂の乱入事件が精神的に堪えたのだろうけど。

 少し早いが、このまま朝まで夢の中に居よう。


 そんな俺の思いとは裏腹に、夜中にふと目が覚めてしまった。

 

 なんとなく寝苦しい。

 おまけに妙に蒸し暑い。

 広くてフカフカのベッドなのに。

 贅沢にエアコンも点けているというのに。

 枕が変わって眠れないほど繊細な性格でもない。

 

 何かと思って見てみれば、火乃香が俺のベッドに潜り込んでいるではないか。

 いつも一緒に寝ているから、寝惚けて間違えたのだろうか。

 いずれにせよ、こんな所を泉希に見られる訳にはいかない。

 俺は火乃香を抱きかかえ、端のベッドまで運んで寝かせてやった。


 「むにゅむにゅ……兄貴……」


寝言を呟く義妹いもうとの頭を撫でてやった。

 すると火乃香が俺の浴衣を引っ張った。

 足が縺れて泉希のベッドにダイブしてしまう。

 風呂場の時とは反対に、今度は俺が泉希に覆い被さる形だ。


 「ん……悠陽……?」

「み、泉希。こ、これはその――」


冷汗を浮かべ視線を泳がせていると、泉希が唐突と俺の首に腕を伸ばした。

 そのまま思い切り両腕を引き寄せ、俺の頭を自分の胸に抱え込んだ。

 

「み、泉希……?」


訳がわからず裏返った声で呼び掛けると、頭の上から『スヤスヤ』と穏やかな寝息が聞こえてきた。

 

 十中八九、泉希も寝惚けているのだろう。


 とはいえ泉希の薄い胸に俺の顔が押し付けられている事実は変わらない。

 固く柔らかい感触が頬を撫でて、石鹸の甘い匂いが鼻腔びくうくすぐる。

 まるで麻薬か催眠の如く。

 俺の中の理性が溶かされ欲望と欲情がムクムクとせり上がって来る。


 このまま本能に身を委ねたい衝動を押し殺して、心頭滅却よろしく冷たいシャワーを頭から浴びた。


 ……俺、今日何回風呂入ってんだろう。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


今回私達が泊まったホテルはサービスも充実していて、夜泣きそばの他にアイスや健康飲料の無料配布もあったの。観光より食の充実した旅だったわ!

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