第62話 【7月下旬】火乃香と泉希とビアガーデン④

 「――兄貴は、本当に優しいヒトです」


手元のオレンジジュースを見つめながら、火乃香ほのかはポツリと呟いた。

 肩が触れ合うほど近くに居るのに、なぜか遠くに感じてしまう。

 奇妙な感覚が渦を巻く俺を尻目に、火乃香はそっと語り始めた。


  「初めて兄貴を尋ねた時、帰り道に二人でラーメンを食べました。わたしの人生で、一番美味しいラーメンでした」

「それって、薬局みせの近くにある醤油系の?」

「あ……はい」

「あそこ美味しいわよね。特にチャーシューが」

「そうなんです。そのチャーシューを兄貴が分けてくれて……あの時の味は、たぶん一生忘れられないと思います」


どこか昔を懐かしむよう微笑みながら、火乃香はオレンジジュースで喉を潤す。

 そして一息つくと、おもむろに空を見上げた。


 「眠れない夜には、兄貴が一晩じゅう話し相手になってくれました。それまで友達とか居なかったし、家でもずっと一人だったから……誰かと夜通し喋ったのは初めてで、すごく楽しかったです」


言葉を繋ぐたびに仏頂面が少しずつ崩れて、火乃香の頬が緩んでいく。

 そんな義妹いもうとと反比例するよう、今度は泉希みずきの顔から笑顔が消えていった。

 だけどそれは、不満や苛立ちの表れじゃない。

 何度も首肯しゅこうを繰り返し、火乃香の言葉を正面から受け止めている感じだ。


 「そういえば、水城みずしろ先生」

「なぁに?」

「わたしが拾った子猫たちの受け入れ先――保護猫カフェの事を教えてくれて、有難うございました」

「そんなの良いのよ。私はたまたま見つけたのを、悠陽ゆうひに教えただけだから!」


深々と頭を下げる火乃香に、泉希は慌てて両の手を振った。

 けれど火乃香も、小首を左右に振って応える。


 「あの時のわたしは、今よりもっと人に頼ることを知りませんでした。だからあの子達を見つけた時もどうして良いか分からなくて……夜中にこっそり抜け出して様子を見に行ったり、預けてくれた生活費で猫たちのゴハンを買ったりしてました。

 そんなわたしを、兄貴は怒る事もなく受け入れてくれて……優しさ以上に、兄貴の頼もしさを知る事ができました」


チラリと俺を一瞥いちべつしてから、火乃香はすぐにまた手元のジュースに視線を落とした。だけど今度は少しだけ顔を上げて、泉希を正面に見据える。


 「わたしが風邪を引いた時も、付きっ切りで看病してくれました。あんなに誰かに我儘ワガママを言ったのは初めてだったけど、兄貴が嫌な顔一つしないで応えてくれるから、つい甘えちゃいました」

「そうそう。悠陽って自分の事は後回しにするクセに、他人の事となると一生懸命になるのよね」


どこか照れ臭そうに笑う火乃香に、泉希も浅く嘆息を吐いた。同時にグイッと一気に飲み干して、3杯目のカップへと手を伸ばす。


 「ワガママって言えば、携帯電話も買ってもらった時もそうでした。初めての携帯電話にテンションが上がっちゃって」

「分かるわ、その気持ち。私も初めて自分の携帯電話を持った時は、嬉しくて浮き足立ってたから」

「そうなんです。それで兄貴にメッセージを送り過ぎちゃって……仕事の邪魔をして怒られるかと不安だったんですけど、兄貴は笑って許してくれて」

「あ~、そんな事もあったわね」


少し冷めてきたタコ焼きを口に放り込んで、泉希はビールで流し込んだ。そういえば泉希に注意されて、返信するのを止めたんだっけ。


 「そうだ火乃香ちゃん。良かったら私と連絡先を交換しない?」

「え……」

「ダメ?」


頬を赤らめる泉希に上目遣いで尋ねられ、火乃香は戸惑い言葉を詰まらせた。

 だが恐る恐ると携帯電話を取り出して、「お願いします」と画面を開く。

 ただ二人とも連絡先の交換には慣れていないようで、しばらく画面と睨めっこを続けやっと作業を終えた。

 増えたアドレス帳を見つめ、何故か複雑な表情を浮かべる火乃香の横顔が少し気になったけれど。


 「あ……そうだ」

「どうしたの?」

「進路の事、有難うございました。沢山アドバイスして頂いて」

「そんなのいいのよ。私の方こそ、色々と偉そうに言ってゴメンなさい」


微苦笑を浮かべ眉尻を下げながら、泉希はとうとう4杯目に突入した。

 決して小さなカップではないのだが……現に俺はまだ1杯目すら飲み切ってない。


 「進路って言えば、休学の書類を書いている時に、はじめて兄貴が6月生まれって知ったんです。わたしの誕生日は知ってたのに……ちょっとムッとしました」


その言葉通り、火乃香は頬を膨らませてフライドポテトを一つ摘まんだ。そんな彼女に呼応するよう、泉希も「うんうん」と首を縦に振る。


 「分かるわー、その気持ち。悠陽ったら従業員の誕生日は覚えてるクセに、自分の誕生日となると当日になって漸く思い出すんだもん」

「そうなんですね……わ、わたしも急いでのバイト探して、なんとか兄貴にプレゼントを買えました」

「知ってる。『火乃香が初めてバイトしてプレゼントを買ってくれた』って、この人ずっと私に自慢してたんだから」


呆れたように言いながら、泉希はクイと顎先で俺を指し示した。その動きにいざなわれるよう、火乃香も驚いた顔で俺を見つめる。


 「悠陽ったら、仕事中もずっと火乃香ちゃんの事ばかり話すんだから。本当に自慢の義妹みたい」

 「……わたしも、です」


どこか皮肉っぽく言いながら微笑みかける泉希に反して、火乃香は俯きながら言葉を漏らした。

 てっきりいつもみたく泉希に乗って俺を茶化すかと思いきや、火乃香はスンと真顔になって項垂うなだれしまう。


 「ちょっと抜けててお調子者で、だけど優しくて頼りになる兄貴は、わたしの一番の自慢です。けど、それ以上に兄貴は――」


そこまで言いかけると、火乃香はぎゅっと唇を噛み締め言葉を飲み込んだ。

 

 すると、その直後。


 膝の上へ置いた右手に、火乃香の指先が触れた。


 そして何を言うでもなく、ぎゅっと固く俺の手を握りしめて……。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


火乃香ちゃんは中学高校と友達が少なかったみたいだけど、私も人付き合いが苦手で友達と呼べる人は居なかったの。親も居ないし休日はずっと一人だから、仕事をしている方が精神的に楽だったりするのよね……。

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