第46話 【6月下旬】火乃香と映画と白いパーカー③

 映画を観終わり場内の通路を歩いていると、唐突にトイレから飛び出してきた男の子と火乃香ほのかが正面衝突してしまった。

 尻餅ついてパーカーにコーラを零してしまった火乃香は、男の子を見送るや脇目も振らず出場ゲートへ向かった。


「火乃香⁈」


床に転がったカップを拾い、数秒遅れて俺も義妹いもうとの後を追いかける。


 劇場ロビーを抜けてシネマショップの前を通り、火乃香はエスカレーターで下階へと向かった。

 流石は現役女子高生。ビル内だから俺も全力疾走じゃないとはいえ、中々どうして追いつけない。


「ちょ、待てよ!」


声を高く俺もエスカレーターを駆け下りる。

 このビルに入っているテナントはほとんどクリニックやエステサロンだから、表通りや他の店とは違って人も少ない。そこだけは幸運ラッキーだった。


 六つのフロアを駆け下り、1階のエントランスでようやくと火乃香をとらえる。ビルの外へ出る前に追いつけて良かった。


「火乃香!」


華奢な肩を鷲掴みにして、俺は半ば無理矢理に振り返らせた。

 だが火乃香の姿を正面に捉えた瞬間、俺の心臓はドキリと縮み上がる。


 なにせその顔は、涙であふれていたのだから。


 まぶたを腫らし顔を赤らめ、それでも泣きじゃくる姿を俺に見られないよう、火乃香は必死に顔を背ける。両手に握った拳を小刻みに震わせて。


 余程あのパーカーを気に入っていたのだろう。俺が買い与えてからは毎日のように自慢していたくらいだし、当然と言えば当然か。


「だからって何も泣くことはないだろ。別に高価な物でも一点物って訳でもないし、なんなら今から新しいのを買いに――」

「イヤ!」


苦笑浮かべて俺がさとせば、火乃香はその言葉を断ち切るみたく語気を荒げた。


 「これじゃなきゃ……兄貴がくれたこのパーカーじゃなきゃダメなの!」


強まる声量に比例するよう、瞳から零れる涙も数を増して声は嗚咽おえつに変わる。

 思いがけない反発に俺はどう対応すれば良いか分からず、咄嗟に辺りを見回した。

 ふと壁の方を見れば、フリースペースに木製ベンチが設置されていた。運の良い事に今は誰も利用していない。


「ちょっと、座るか」

 

小洒落たベンチを指差せば、存外素直に火乃香はコクリと頷いた。俺の心境を察してくれたのか、二人並んでベンチに腰を下ろす。

 直後、火乃香は「ふぅ」と小さく息を吐いた。


 「分かってる……子供っぽいこと言ってるのは。服なんてどうしたって汚れるし、いつかは着れなくなるってことも分かってる。でもこの服だけは……はじめて兄貴に買って貰ったこのパーカーだけは、ずっと大切にしたかったから……」


座ったことで火乃香は少しばかり落ち着きを取り戻した。けれどまたすぐにボロボロと涙があふれ出し、不格好に鼻水を啜る。


 「分かってた……だけど楽しくて、浮かれてて、全然周り見てなくて……折角兄貴が買ってくれたのに……バカな自分が本当イヤになる」


握り締めた拳で、火乃香は自分の膝を叩いた。

 いましめのように2度3度と膝を打つ火乃香に、俺は「ふむ」と鼻から嘆息を吐く。


「なあ、火乃香」

「……なに」

「そのスニーカー、良く似合ってるな」

「え、あ……うん」


パーカーと一緒に買った白いスニーカーを見ながら俺は尋ね掛けた。

 よほど意外だったのか、火乃香はキョトンを目を丸く自分の足元を見遣みやる。


「新しく買った靴の紐を結んだ日ってさ、なんだか良い事ありそうな気がしないか」

「……なんとなく」

「十分だ。けど毎日履いてると、そんな気持ちも忘れちまってさ。履き潰した頃にはいつ買ったのかも忘れちまうんだよな」


あっけらかんと笑ってみせる俺に、火乃香は意図が分からないと言った様子で小首をかしげた。


「服も同じなんだよ。ずっと綺麗なままだったら、それを着て出かけた思い出がいつか薄れちまう。少し汚れてた方が、その時のコトを鮮明に思い出せるだろ」


言いながら、俺は火乃香のパーカーに着いた染みに目を向けた。


「俺がプレゼントした服を大事にしてくれるのは、正直嬉しい。だけど俺はそれ以上に、楽しい思い出や心に残った経験を大切にしてほしいんだ。

 その汚れがあれば、今日俺と一緒に初めて映画に行ったことも、二人で此処ここへ来たことも、忘れることなく思い出せるだろ。そっちの方が宝物になると俺は思う」


自分で言っておきながら歯の浮くような台詞が恥ずかしくなって、俺は明々あかあかと笑って誤魔化した。

 反して火乃香は真剣な面持ちのまま、触れ合う身体を一層と寄せて静かに俺の胸へ顔を押し付ける。

 そんな彼女を抱くように受け入れ、俺は艶やかな髪を優しく撫でた。


「泣いたっていい。怒ったっていい。後悔だって、ナンボでもしろ。お前はまだ若いんだ。何度だって失敗すりゃいい」

「……うん」


ピトリと体を密着させ、肩に頭を寄り掛かけたまま火乃香は頷いて応えた。


 「ねえ、兄貴」

「ん?」

「手、繋いでいい?」

「良いけど、どうして」

「だって、はじめて兄貴と手を繋いだ記念も、このパーカー見たら思い出せるから」

「……たしかに」


囁くように答えれば、俺は火乃香の指に右手を重ね合わせた。

 細い指先はヒヤリと冷たくて、上質の絹を思わせる肌触りが俺の指をくすぐる。


 「兄貴の手、すごく温ったかい」


気持ちが落ち着いたのか、火乃香は柔和な笑みを浮かべた。

 そして握った手に指を絡ませ、俺の手をぎゅっと握り返す。

 

 少しだけ恥ずかしくて、顔が熱くなった。

 胸の奥を撫でられるようで、こそばゆい。


 だけど握った手は離せなかった。

 離したくなかった。


 互いの熱を交わす感覚。

 それが何よりも心地よかった。


 この瞬間を永遠に噛み締めて居たかった。


 ただ今だけは義兄あに義妹いもうとという交わりを……忘れていたかった。


 


-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


ようやく第2章が終わったわね。次からは第3章に入ります! ところでもう40話以上書いているのに、二人が出会ってから3ヵ月も経ってないわね。1年経過するのに何話かかるのかしら……。

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