第41話 【6月下旬】火乃香と泉希と映画のチケット⑥

 「――ど、どうぞ……入って」

「お、お邪魔します……」


シオンモールで火乃香ほのかの服と靴を買ってすぐ、俺は泉希みずきと共に彼女の家へ向かった。

 最寄駅から乗り換えを一度挟んで30分強。駅から程近い住宅街に泉希のマンションはあった。

 ウチの安アパートとは違い、オートロックのエントランスにエレベーター。不在時の宅配ボックスまで設置されている。月々の家賃は如何いかほどなのか……。


 「適当に座ってて。私、オツマミ用意するから」


上着をハンガーに掛け、泉希は足取り軽くキッチンに向かった。俺は借りてきた猫のように息を殺してローテーブルに着く。


 意外と言うべきか、やはりと言うべきか。泉希の部屋はとてもシンプルだった。

 ソファやテーブルなど最低限必要な家具があるだけで、高級な装飾品が飾ってあるわけでもファンシーな雑貨が並んでいるわけでもない。

 

 なんとも落ち着いた、大人っぽい部屋である。


 けれどアロマや造花といった彩りが、男の一人暮らしとは明らかに違う空気を演出している。どころか火乃香と一緒に暮らしてからも、ウチは相変わらず貧乏くさい。やはり家賃の高価たかさがそう思わせているのだろうか。


 「ちょっと、あんまりジロジロ見ないでよ!」


頬を赤らめ憤りを露わに、泉希はチーズやナッツ、チョコレートなど定番オツマミの盛り合わせを用意してくれた。

 お次は電子レンジで温めた唐揚げに、冷凍モノの枝豆と冷ややっこ……泉希の手料理が食えるかと少しは期待したのだが。


 「おまたせっ」


そんな俺の期待など知るよしも無く、いそいそと泉希もテーブルに着く。


「それにしても泉希の部屋って綺麗だな。てっきり服とか日用品が散乱してるのかと思ってたよ」

「ぎくっ!」


ビクリ、泉希の細い肩が震えた。どうやら図星らしい。週6で働いてくれてるから、掃除をする暇も無いか……。


 「そ、そんなことより早く飲みましょう!」


苦笑いを浮かべ泉希は黄金色こがねいろのシャンパンをグラスにそそぐ。我が家では絶対にお目に掛かれない上等なワイングラスだ。


「じゃあ、カンパイ」

「か、乾杯っ」


チンッとグラスを打ちあわせ、俺達は同時に飲み合わせる。


 「美味しい……!」


歓喜に微笑みを浮かべるや、泉希は一口また一口と飲み進めた。

 だが泉希の言う通り、確かに美味い。林檎の香りがアルコールのエグみを消して、自然な甘みとほのかな酸味が口の中いっぱいに広がる。ワインが苦手な俺でも、これなら無理なく飲めそうだ。


 泉希など早くもグラスを空けている。そんなに気に入ってくれたなら、買ってきた甲斐があるというものだ。

 俺は銀のワインクーラーからボトルを取り、泉希のグラスに注いだ。


 「ありがとう」

「どーいたしまして」

「この林檎のお酒シードル、すごく私好みでつい一気に飲んじゃった」

「喜んでくれて何よりだ」


泉希にワインを注ぎ終え、俺もグラスを傾けツマミの皿に手を伸ばす。ナッツを一つ齧った瞬間、全身に衝撃が走った。


 今まで食べた事のない味と香りが口の中いっぱいに広がった。


 ナッツだけではない。チーズもケーキみたいに甘いし、チョコもトロリと濃厚で。

 さすがに冷や奴と枝豆は平常運転だったけど、それでも美味いことに変わりない。唐揚げは冷凍食品の進歩を痛感させられた。


「やっぱ高級品は違うなみず――」


瞬間、泉希はそっと肩を寄せた。いつの間に隣へ移動したのか。

 寄り掛けるよう俺の肩に頭を乗せて、何も言わずにチビリとグラスを傾ける。

 シャンプーか柔軟剤か。甘く心地よい香りが俺の鼻腔をくすぐった。

 アルコールの効果も相俟あいまって、心臓は加速し体が熱を帯びる。


 こんな時……どうすれば良いのだろう。


 肩のひとつも抱けば良いのか。

 キスのひとつでもすれば良いのか。


 けどそんな事になれば最後まで行くことにならないか。今なんて持ってないけど、まさか泉希が用意して……いや何を考えてるんだ俺は!


 「……悠陽ゆうひ


馬鹿な妄想を繰り広げている最中さなかに名前を呼ばれ、今度は俺が肩を震わせる。


 振り向けば、泉希がじっと俺を見つめている。

 空いた左手に、そっと泉希の手が触れた。

 静寂の中、俺達はじっと互いを見つめ合う。


 数秒か数刻か。揺蕩たゆた時流じりゅうの中で泉希はそっと目を閉じた。心なしか、潤んだ唇がすぼんで見える。


 ゴクリ。固い唾が喉の奥へと流し込まれた。


 い、良いのか? 良いんだよな!


 声にならない声で叫んだと同時、俺はテーブルにグラスを置いて恐る恐ると泉希の肩を掴んだ。


 そして静かに……彼女の元へ唇を寄せていく。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


私の家は最寄駅から徒歩7分の場所にあるマンションよ。一人暮らしや新婚さん向けの部屋で、悠陽の家と同じ1LDKの間取りなの。ただ家賃は11万円だけど……。

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