第32話 【6月中旬】火乃香と6月13日③
俺の誕生日でもある6月13日の木曜日。薬局の業務終わりに、
それだけでも感激だというのに、あろうことか食事にまで誘われてしまった。
幸いにも今日は木曜日。仕事は午前中で終わりだから明日の業務にも響かない。
なにより泉希からのお誘いだ。雨が降ろうと槍が降ろうと是が非でも行きたい。
けれど、ひとつだけ問題がある。
今朝ウチを出る際、『17時には帰る』と
いま13時ちょうど。これから雑務を済ませ、店を閉めたとして間に合うだろうか。そもそも
「なあ、泉希」
「なに」
「その店って、どこにあるんだ?」
「
「30分か……」
復唱しながら俺は頭の中で電卓を弾いた。レストランまでの移動に30分、食事に1時間、レストランから家まで1時間。ギリ間に合うかって所だが――
「もちろん今日は私の奢りよ」
「行きます!」
足りない脳細胞でもって計算するくせに、『奢り』の一言にすべてのプロセスが吹き飛び反射で口が動いた。貧乏が憎らしい。
「それじゃあ、早いところ仕事を終わらせて行きましょうっ」
どこか声色高く鼻歌交じりに、泉希は白衣を
レストランの予約もしてくれているみたいだし、あんなに嬉しそうな姿を前にしては今更断るなど出来るはずもない。
こうなってしまったからには
にも関わらず、目的のレストランに到着したのは15時前。電車の乗り換えに手間取って思ったより時間が掛かってしまった。
「あのお店よ」
そう言って泉希が指差したのは、住宅街にある小さなイタリアンレストランだった。
わずか数席だけの手狭な店内だが、趣きのある静かな個人店。
ちなみに料理も泉希がコースを予約してくれていた。イタリアンなんて洒落たメシを食わない俺もメニューを開かずに済んで助かった。
それにしても一人3000円のコースとは……見かけに寄らず高級店なんだな。
「そういえば泉希。前に猫カフェの前を通ったって言ってたよな。もしかして今日の店を下見にでも来てたのか?」
「え……ち、違うわよ! あ、あれは
名前も分からない洒落た前菜をつまみながら、泉希は耳まで顔を赤く染め上げ視線を泳がせる。バレバレの嘘だけど、そんな姿もまた愛らしい。
前菜、スープ、生ハムのパスタ、舌平目のムニエルと次々に出される食事に俺達は舌鼓を打った。
スパークリングワインなんて飲んだのは何年振りだろう。酒好きな泉希は飲み慣れているようで、特に林檎の酒が好きらしい。
そうして豪華な食事を堪能していると、デザートが運ばれて来る前に突然と照明が落とされた。
何事かと思い厨房の方を振り向くと、オーナーと思しき男性が小さなホールケーキを俺達の前に置いた。
「お待たせ致しました。こちら御注文のバースデーケーキです」
カットフルーツがたっぷり乗った、小さくも豪勢なケーキ。それらの隙間を縫うように、大きなローソクが2本と小さなローソクが8本立てられている。
「ハッピーバースデー、
「あ……ありがとう、泉希」
状況と意図を理解し、俺は揺らめくローソクの火を一息に吹き消した。
こんな洒落たサプライズを受けたのは生まれて初めてだ。どこかこそばゆくって、嬉しくって。思わず顔がニヤケてしまう。
「なに笑ってるのよ」
「いや、なんでもない」
言いながらもニヤケ顔を止められず、何故か泉希もつられたように笑い出した。
熱い紅茶と共に切り分けられたケーキが出され、俺達の笑顔は一層と深まった。
◇◇◇
「――今日はありがとうな、泉希」
「どういたしまして」
「あんな贅沢なモノ久しぶりに食ったよ。ごちそうさま」
「喜んでくれたなら良かったわ」
帰りの電車内。隣に座る泉希に微笑みかけると、泉希はどこか得意気に答えた。
だが直後、不意に顔を伏せたかと思えばモジモジと手を擦り合わせる。
「ね、ねえ悠陽」
「ん?」
「これから私の家で……お、お酒でもどうかしら」
「お、お前の家で⁈」
恥じらい気味に恐る恐ると伺い立てる泉希に、俺は驚きオウム返しに尋ねる。
一層と頬を桜色に染め耳まで赤く、泉希はコクリと首肯した。
正直言って行きたい。
ものすごく行きたい。
だけど火乃香との約束がある。
レストランを出たのが16時30分。ただでさえ時間が押しているというのに、酒など飲んでは今日中に帰れるかも怪しい。
だがこんなチャンスは滅多にない。
なにより誘いを断るなど男としてどうだ。
しかし相手は従業員。
コンプライアンスに反するのではないか。
とはいえ泉希が勇気を出して誘ってくれたのだ。
だけど、火乃香が家で待っている。
ゴクリと喉を鳴らし、俺は静かに目線を下げた。
「わ、悪い泉希。明日も、その……仕事だから」
苦渋を舐めるように俺は声を絞り出した。どうしても火乃香の顔がチラついて離れなかった。
「そ、そうよね……ごめんなさい」
「いや……俺の方こそ、ゴメン」
シュンと力無く項垂れる泉希に、俺はそれ以上何を言えば良いのか分からなかった。会話も無くなり、気まずい空気が俺達を包み込む。
会話のないまま電車は2つの駅を通り過ぎて、泉希の自宅マンションがある駅へと到着した。
「……私、ここで降りるから」
そう言って静かに泉希は座席を立った。だがドアへ向かおうとする彼女の手を掴み、俺は彼女を引き留める。
「ゆ、悠陽?」
「ごめん。この埋め合わせは後日必ずさせてもらう。だから今は……もう少しだけ、一緒に居てくれないか」
「……うん!」
掴んだ俺の手を握り返せば、泉希はいそいそとまた俺の隣に腰を降ろした。
相変わらず会話はない。
それでも繋いだ手と寄せ合う肩から、彼女の想いが伝わってくるかのよう。
たった1駅分の儚い時間。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。
心の何処かで……そう願っていた。
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