第36話 【6月中旬】火乃香と泉希と映画のチケット①

 「――ただいまー」


いつも通りの仕事を終えいつも通りに帰宅すると、パタパタと駆け足気味に火乃香ほのかが出迎えてくれた。


 「お帰り、兄貴」


少し前まで「ただいま」と言ってもマトモな返事をしてくれなかったのに。なんとも嬉しい限りだ。


 「今日の晩御飯は兄貴の好きな親子丼だよ」

「お、やった」

「すぐに食べるでしょ」

「おう。でもその前に、ハイこれ」


玄関で靴を脱ぐや、美麗なイラストが描かれている紙券を差し出した。


 「なにこれ」

「チケット。映画の。特別鑑賞券ってヤツ」

「え、なんで! どうしたの!」

「取引先の業者さんから貰った」

無料タダで?」

「もちろん」


驚き感嘆の声を漏らす火乃香に反し、俺はも当たり前のように答えた。でもそれは義妹いもうとの前で格好つけたかっただけで、本当を言えば俺も驚いている。

 診療所や大手の薬局チェーンならばともかく、ウチみたいな個人経営店にも融通してくれるとは思わなかった。

 映画のタイトルは聞いた事も無いけど。


「それ、火乃香にやるよ」

「いいの⁈」

「もちろん」

「やった! 映画とか何年振りだろ! じゃあ今度の日曜日に行こうよ!」

「いや、俺はいいよ」

「え……どうして?」

「従業員1人につき1枚なんだと」


握られたチケットを指で差せば、火乃香はシュンと力無く肩を落とした。


 「なんだ……じゃあ、わたしもらない」

「どうして」

「だって一人で行ったってつまんないじゃん。行くなら兄貴と一緒がいい」


言葉通り詰まらなそうに頬を膨らませて、火乃香はチケットを突き返した。

 なんて可愛いことを言うんだこの義妹は! 少し前まで反抗的だったのに……抱き締めてやろうかコノヤロー。


 「それに一人一枚ってことは、水城みずしろ先生も貰ったんでしょ。わたしに気ぃ遣わないで、あのひとと行ってくれば良いじゃん」

「なんでそこで泉希が出てくるんだよ」

「……フンッ!」


いつもより強めに鼻を鳴らして、火乃香はソッポを向いた。やっぱり泉希の事は苦手らしい。目の敵にしているようにも見えるけど……なんにせよ、可愛い義妹のヘソを曲げたままには出来ないか。


「分かったよ。じゃあ今度の休み、一緒に行こう」

「……チケット1枚しか無いのに?」

「俺は当日券買うよ」

「……別に無理してわたし誘わなくていいし。チケット持ってる人同士で行けば良いじゃん」

「無理なんかしてないよ。俺も本当は火乃香と一緒に行きたいと思ってたんだ」

「本当に?」

「本当に」


微笑みかけて頭を撫でれば、火乃香も呼応するように口元を緩めて、伏せ気味な視線を上げた。


 「しょうがないな〜。兄貴がそこまで言うなら、一緒に行ってあげる」


まるで俺が駄々をこねて強引に誘ったような口振りで、火乃香は鼻歌まじりに夕食の準備を始めた。良かった、これで親子丼にありつける。


 「いっただっきまーす」

「いただきます……」


上機嫌な火乃香と共に、俺は特製の親子丼に舌鼓を打った。相変わらず火乃香の作る料理メシは美味い。


 「ごちそうさま! さーてっと!」


あっと言う間に食事を終えて空の食器をシンクに運べば、火乃香はベッドに寝転がり携帯電話で調べ物を始めた。


 「……え、嘘っ!」


かと思えば慌ただしく飛び起きて、すぐそばのクローゼットを開き次々と自分の服を引っ張りだす。


「なにしてるんだ」

「見れば分かるでしょ! 服出してるの!」

「だからなんで」

「いま調べたら、この映画、繁華街にある映画館でしかってなくて」

「それがなんで服漁ってるんだよ」

「だって、繁華街に出るなら綺麗なカッコして行きたいもん」


言いながら火乃香は服を取り出しては、ベッドの上へと放り投げていった。その間に俺は食べ終わった二人分の食器を洗う。

 しばらくすると、火乃香は「はぁ〜あ」と大きな溜め息を吐いて肩を落とした。


 「やっぱいいや。制服で行こ」


どこか投げやりに無地のTシャツを放って、火乃香は高校の制服を広げる。


「なんで制服?」

「だってわたしの持ってる服、どれも可愛くないし、くたびれてるんだもん。制服が一番マシだし。靴も学校のやつ以外はボロボロだから」


言われて俺は玄関を振り返った。そういえば火乃香の持っているスニーカーは傷んで汚れている。確かに制服と制靴せいか以外が一番新しく、見た目にも綺麗だが……。


「そんなの気にするなよ」

「気にするし。まあでもたしかに、休学してるのに制服は……ちょっと変だけどね」


どこか気落ちした声で言いながら、火乃香は散らかした服を片付けていく。心なしか渇いた笑みを浮かべる義妹に、俺の胸はチクリと痛んだ。



 ◇◇◇



 翌日。火乃香はいつも通りの様子で朝食の準備をしていた。どころか「映画、楽しみだね」と明るく振舞い、ネットで調べた映画のあらすじなど話してくれた。

 だけどその姿が、俺にはどうしても無理をしているようにしか思えなくて、火乃香の話も右から左に流れてしまった。


 薬局で仕事をしている間も、陰りを帯びる火乃香の顔が頭から離れず、そのまま昼の休診時間を迎えてしまった。


「……なあ、泉希みずき

「なによ神妙な顔で。また火乃香ちゃんの話?」

「なんで真っ先に火乃香が出てくるんだよ」

「だって貴方、このところ火乃香ちゃんの話ばっかりじゃない」

「そうか?」

「そうよ。それで、なんの用なの?」

「そうそう。今週の日曜日、ヒマかなって」

「……え?」

「ちょっと、付き合ってくれないか」

「え……ええぇっ!?」


微笑み混えて伺い立てれば、泉希は座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。


 そんなに驚くことかね……。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


病院や薬局というのは医薬品メーカーや薬の卸業者さんから粗品を貰ったりするの。今は少なくなったけれど、昔は文房具を買う必要が無いくらいメーカーさんからペンやメモ帳を貰っていたそうよ。病院さんは今でも野球のチケットや商品の割引券なんかを貰っているみたい。

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