第18話 【5月上旬】朝日向火乃香と一晩中

 どれくらいの時間が経っただろう。月明かりが暗い部屋の中に差しこみ、火乃香ほのかはうつらうつらと船を漕ぎ始めた。皿の上には食べかけのドーナツがまだ残っている。


「火乃香、寝るならちゃんとベッドで寝ろ」

「……やだ」


しょぼしょぼと寝惚ねぼけ目を擦りながら、火乃香は俺の服を握りしめた。離れるつもりは無いらしい。


「せめて制服は着替えろよ。そのまま寝たら皺になるだろ」

「いい。今日は寝ないから」

「どうして」

「寝たらまた……昔のこと思い出しそうになる」


消え入りそうな声で答えると、火乃香はまた俺の胸に顔を押し当てた。

 ウチに来てから、実は眠れない日々が続いていたのだろうか。それとも今まで押し殺していた感情が一気に爆発して、波のように押し寄せているのだろうか。どちらにせよつら事実ことに変わりない。


「……ちょっと待ってろ」


腰に回された火乃香の腕を優しく解いて立ち上がると、俺はキッチンに行き二人分の珈琲を淹れた。


「少し、お喋りでもしようか」


ミルク入りの珈琲を渡すと、火乃香は目尻の涙を拭って頷いた。

 結局制服を着替えないまま、火乃香はローテーブルの前に座り直した。そんな義妹の肩にタオルケットを掛け、俺は彼女の向かいに腰を降ろす。


 「……ありがと」


掠れるような涙声で言うと、火乃香は膝を抱えて三角座りに、熱いミルク珈琲に息を吹きかけ「ズズズ」と啜った。


 「……ちょっと苦い」

「砂糖は入れてないからな。ドーナツもまだ残ってるし。苦いのは嫌いか」

「得意ではないかも。でも、これは美味しい」


マグカップを両手に抱え、火乃香はもう一度ミルク珈琲を飲んだ。俺も模倣するように苦々しい珈琲を傾ける。


 「アンタは、苦いの好きなの?」

「ん……俺もあんまり得意じゃない」

「じゃあなんで珈琲なんか飲むの」

「だって格好いいじゃん」

「なにそれ。子供じゃないんだから」

「男ってのは何歳になってもガキなんだよ。見た目はオッサンでも心は小学生のままなのだ」


冗談っぽく笑いながら俺はまた珈琲を啜った。カフェインが効いてきたのか、なんとなく頭が冴えてきた気がする。


 「アンタって、いま27歳だっけ」

「そう。今年28な」

「わたしの丁度12コ上か……お母さんのが歳近い」

「お母さんって何歳だっけ?」

「32か、33歳だったと思う」

「……四捨五入したら俺と同い年か」


なんとなくそんな気はしていたけど、改めて言われると衝撃だ。自分なんてまだ子供だと思っていたけど、着実に年を重ねているんだな。


「けどそう考えると、息子と同年代の相手と再婚したウチの親父は相当だな」

「別に結婚に年齢とか関係なくない」

「そうか?」

「少なくともわたしは気にしない」

「ふーん。そんなもんか」

「うん。てゆーか、アンタは結婚とかしないの?」

「考えなくは無いよ。問題は相手が居ないってことだな」

「あの水城みずしろってひとは?」

「だから言ってるだろ。泉希みずきは恋人じゃないって。どっちかって言うと、ずっと俺のことを支えてくれてる恩人って感じだな」

「ふぅん……」


曖昧な返事で火乃香はまた珈琲を一口飲んだ。膝を山成りに抱え座っているせいで、さっきから白い太腿がチラチラ覗く。気になって仕方がないけど、指摘するのも誤解を生みそうではばかられた。


「そういうお前の方こそ、彼氏とか居ないのか」

「居たらソイツの所行くし」

「それもそうだな。でも意外だ」

「なにが」

「彼氏が居ないコト」

「なんで意外なの」

「だってお前、超のつく美人だから」


何の気なく言うと、火乃香は頬を赤らめ唇尖らし焦った風に視線を逸らした。


「び、美人とか……全然そんなことないし。別に普通だから」

「いや、かなり美人だよ。てっきりモテモテなのかと思った」

「……仮に見た目が良くても中身がコレだもん。可愛げとか皆無だし」

「だから見る目が無いって言ってんだ。お前が本当は優しい人間だってこと、周りの奴らは一個も理解できてないからな」


視線を逸らしながら小さく鼻を鳴らして、火乃香はミルク珈琲を啜った。「素直になれない」という点は本人の申告通りだな。


「告白されたりとかは」

「まあ、何回かは」

「つ、付き合ったのか」

「ううん。全部断った」

「どうして」

「わかんない。でもなんか嫌で。そもそも人付き合い自体、あんま好きじゃないし」


それは何となく分かる。火乃香は自分の中に一本芯が通っているというか、同年代の子に比べて達観している雰囲気だからな。


 「ウチは貧乏だったから遊ぶようなお金なんて無かったし、携帯電話もわたしだけ持ってなかったから周りと話も合わなかった。だからクラスの子と話してて楽しいと思ったこと無かった」

「じゃあ、男と付き合った経験ことは」

「一回も無い」


淡々と言い切る火乃香の言葉に、俺は何故かほっと安堵に胸を撫で下ろした。これが娘を持つ父親の気持ちなのか。


 「わたしのことは良いから、アンタのコトもっと聞かせてよ」

「オッサンの話とか面白くないだろ」

「いいじゃん聞かせてよ。どんな事でもいいから」

「そうか。じゃあ――」


俺は自分の生い立ちや若い頃の出来事を離した。なんのことはない普通の会話だったけど、火乃香は「クスクス」と楽しそうに笑ってくれた。

 その笑顔がもっと見たくて、火乃香と話すのが嬉しくなって、宣言通り俺達は一睡もせずに朝を迎えてしまった。


 因みに火乃香は俺が仕事に出る頃にはスヤスヤと寝息を立てていた。一晩中喋っていたから、流石に疲れたのだろう。

 出来るだけ物音を立てないように家を出て、俺は数日ぶりの薬局に向かった。

 目元にクマを作って出勤し、ケアレスミスを連発する俺は泉希にキッチリ怒られた。


 今夜はちゃんと眠れるといいけど……。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


今更だけど悠陽はベッドを火乃香ちゃんに譲って、自分は床にマットを敷いて寝ているみたい。火乃香ちゃんは「自分が床で寝るから」と遠慮したみたいだけど、悠陽も頑なに譲らかなったそうよ。ウチの馬鹿店長は、本当に自分より他人を優先する所があるから、損をすることも多いのよね……。

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