第17話 【5月上旬】朝日向火乃香とドーナツ
「――あっ」
【シオンモール】で
服を引かれて振り返れば、火乃香はドーナツショップを見つめていた。ドーナツと言えばその店を真っ先に思い浮かべるくらい、有名なファストフード店だ。
「……あのさ」
「うん?」
「さっき、欲しい物あれば何でも買ってくれるって言ったよね」
「何でもとは言ってないけど、まあな」
「じゃあ、アレ買って」
ドーナツショップから一度も目を離さず、火乃香は白い指で差し示した。
「いいけど、ドーナツ好きなのか」
「うん」
「じゃあ、買って帰って一緒に食うか」
「うん!」
今日一番の返事と共に、火乃香は駆け足でドーナツショップへ向かった。
今日の
それにしても驚いた。
今日一日このモール内を回って、火乃香はただの一度も『あれが欲しい』『これが食べたい』と希望を言わなかったのに。
それほどまでドーナツが好きなのだろうか。はたまた俺に心を開いてくれたことの表れか。だとしたら火乃香を追いかけて本当に良かった。背中を押してくれた泉希には感謝してもしきれない。
鼻歌交じりに足取り軽く俺達はドーナツをテイクアウトした。本当はもう少し遅い時間にしたかったのだが、帰宅してすぐ火乃香が「早く食べたい」とごねるので渋々とおやつタイムに突入した。
「
「うん」
「ミルクは?」
「ありで」
制服も着替えずローテーブル前に座る火乃香は、キッチンの俺に頷いて応えた。
昼間に【シオンモール】で買ったマグカップにティーバックの紅茶を淹れ、火乃香のカップに少しだけミルクを注ぐ。
両手に白と黒のマグカップを持ち運び、白い方を火乃香に渡した。動物のイラストは描かれていないが、色はきっちり茶碗と揃えている。
「そしてこちらが、御注文のドーナツ4種盛り合わせでございます」
昔ながらのずっしりとした、焦茶色のドーナツ。
チョコレートでコーティングされたドーナツ。
キツネ色したモチモチ食感のドーナツ。
白砂糖を表面に
4つのドーナツを前に、火乃香はソワソワと体を動かしている。いかにも『待ちきれない』と言った様子だ。
「いただきます」
両手を合わせ火乃香は皿に手を伸ばした。どれを食べるか迷うこともなく、焦げ茶色した
ソワソワと浮足立った様子で、パクリと小さな口で齧った。白い頬は桜色に染まり口元には柔らかな笑みが浮かぶ。まるで幸せの雲に包まれているかのようだ。
「本当に好きなんだな、ドーナツ」
「うん。ちょっと思い出あるから」
「思い出?」
俺の淹れた紅茶を一口飲んで、火乃香はコクリと頷いた。
俺は白砂糖の
「わたしね、中学生の頃に一回だけ家出したことがあるの」
「そうなのか」
「うん。まあ家出って言っても全然大したことなくて、夜中に近所の公園で座ってただけなんだけど」
「ああ、なるほど。若い頃って無性にそういうのやりたくなるよな。特に理由もなく夜中に散歩してみたり」
「そんな感じ。でもお母さんはホーニンシュギ……って言うの? わたしには無関心だったから何も言わなかったし、心配もしてなかった。けど……
頭の中の記憶を投影するかのように、火乃香は齧りかけのドーナツを見つめた。
「そのときに、朝日向さんがわたしにドーナツを買ってくれたの。コンビニのやつだったけど、すごく美味しかったの覚えてる。アンタが今日わたしを追って来てくれた時、ちょっとだけ朝日向さんと
「それで、ドーナツが食べたくなったのか」
「うん……」
静かに頷いて、火乃香はまた茶色い輪を削った。だけどさっきより少ない。心なしか表情にも影が
「朝日向さん、本当に善い人だった。お母さんも朝日向さんと結婚してから、少しずつ笑うようになって……わたしにも、優しくなって……」
ポタリ、ポタリ……重ねた言葉に呼応するみたく大粒の涙が零れて落ちる。
ドーナツの味が引き鉄となって、親父やオフクロさんとの思い出が記憶の奥底から
以前火乃香は二人の死を何でもない風に言っていたけれど、あれは自分の心を
けれど今は、その氷が少しずつ溶け出して涙と変わったのだ。
心の器から漏れ出す記憶の氷河は嗚咽に変わり、ドーナツを握る手に涙雨となって
「……」
どんな声を掛ければ良いのか分からなかった。だから火乃香の隣にそっと寄り添い、小刻みに震える肩を抱き寄せる。
火乃香もまた俺の腕を受け入れ、泣きじゃくる顔を胸板に押し当てた。
左手を背に回し、右手で火乃香の長く黒い髪を撫で
いつしか火乃香も俺の腰に腕を回し、俺の体を強く抱き返した。
俺が今
-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------
火乃香ちゃんと悠陽のお父さんの御話は、外伝的な形で投稿しているわ! 以前にもチラッと宣伝させて貰ったけれど、良ければ読んでみてね!
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