第16話 【5月上旬】朝日向火乃香と摘まんだ指先
「――わたし居ると邪魔っぽいし。一人で先に帰ってるから」
俺と
「火乃――」
呼び止める間もなく立ち去る火乃香の後ろ姿に、俺はただ
そうして人の波に飲み込まれるみたく、あっという間に火乃香は見えなくなった。
「ど……どうしたんだろうな〜、アイツ。もしかして緊張してんのかな。やっぱり年頃の女の子っていうのは難しいよな~」
「ははは」と引いた笑いを浮かべて、伸ばした手を戻し痒くも無い頭を掻いた。自分でも顔の引き
「いいの? あの子を一人で帰して」
「……いいも何も火乃香は高校生だぞ。一人で家に帰るくらい出来るさ」
怪訝そうに眉根を寄せる泉希に、俺は尚も
それでも表情を崩さない彼女に居た堪れず、俺は冷たい汗を浮かべて泉希の細い肩を叩いた。
「行こうぜ泉希。明日から仕事も始まるし、打合せがてら珈琲でも――」
そこまで言いかけて俺は言葉を飲み込んだ。まるで堤防みたく、言葉の波が
自分で
火乃香は俺以外に頼る
でも、大事なのはそこじゃない。
火乃香がウチに来た日、アイツはオフクロさんのことを『一緒に住んでいるだけの赤の他人』と言っていた。
今ここで火乃香を追わなかったら、俺達の関係もそうなってしまう気がする。もう二度と本当の家族になれない気がする。
気付けば泉希の肩に置いた右手も離して、俺は拳を握っていた。今はただ火乃香を追わなかった後悔と
「なにボケッと突っ立ってるのよ。サッサと行きなさい」
だがその時。立ち尽くす俺の耳を泉希のつっけんどんな声が撫でた。
予想外の言葉に「えっ?」と間抜けな声を漏らせば、泉希は呆れた様子でジトリと俺を睨み返した。
「い、行くって……カフェに?」
「なに馬鹿なこと言ってるのよ。あの火乃香って子を追いかけたいんでしょ」
「い、いいのか?」
「いいも何も自分の顔に書いてるじゃない。『あの子を追いかけたい』って」
「うっ……」
「そんなんでお茶なんて出来ないでしょ。私のことはいいから、早いこと行ってあげなさい」
「シッシッ」と厄介払いするような泉希に、俺は漸くと決意を固めた。握り締めた拳に一層と力を込めて彼女に背を向ける。
「ありがとう、泉希」
「良いわよ別に。貴方の
寂しげな声を響かせ、そっと寄り添うのように泉希は俺の背中に額を押し当てた。
出来ることなら今すぐ振り返りたい。力の限り泉希を抱き締めたい。そんな想いを押し殺して、俺は勢いよく駆けだした。
「……ごめんな」
届いているかも分からない言葉一つだけ残し、俺は前だけを見つめて走った。
怖かった。
泉希に嫌われることが。
不安だった。
泉希の機嫌を損ねることが。
恐ろしかった。
想いを寄せる相手に失望されることが。
だから火乃香を追うフリをして留まった。
泉希を選んだ風に見せた。
届かないと知りつつ伸ばした右手は、卑怯な俺の弱い心そのものだった。
◇◇◇
行き交う人の波を擦り抜け、俺は必死に火乃香を探した。時に怪訝な顔で、時に不快な目で睨まれながらモール内を駆けずる。
すると間もなく、1階の出入口付近で制服姿の後姿を見つけた。腰まで伸びた長い黒髪にスラリと伸びた手足。間違いなく俺の
「火乃香!」
腹の底から目一杯に声を張った。周りの客が俺に奇異の視線を向けるなか、火乃香も驚いた様子で振り返る。
呆気に取られ足を止める火乃香の元へ、俺は小走りに駆け寄った。
「火乃香……よかった、見つかって」
「な……何してんの。もしかして、彼女さんのこと放ってきたの?」
「お前を一人で帰すわけないだろ。それに泉希は……彼女じゃないから」
言いながら胸がズキリと痛んだ。背中越しに囁かれた泉希の寂しげな声が、今も
「でも……わたしなんかより、ずっと長い間一緒に居る大事な
「……そうだな。泉希は俺にとって掛け替えのない大切な
「……じゃあ今からでも戻りなよ。わたしのことは本当にイイから」
「そうはいかないよ」
「どうして」
「だって
ぶっきらぼうな火乃香の頭に、ポンを右手を乗せた。
瞬間、彼女は目を見開いて俺を見上げた。
まるで枯れていた花が咲いたみたく、暗い表情に明るい光が差し込む。
「……何言ってんの。バカみたい」
けれど火乃香は、またムスッと不貞腐れて視線を逸らした。
かと思えば次の瞬間、何を言うでもなくまた俺の服を指で摘まんだ。
きっとこれが、火乃香なりの甘え方なんだ。
この小さな指が、今の彼女に出来る目一杯の親愛と信頼の表れ。
だけどか細く頼りない、ほんの少しの切っ掛けで解けてしまう儚い結び目。
いつかこの指先が俺の手を握ってくれるほどに、火乃香との絆を強く大きなものにしていきたい。
今はただ、そう願おう。
-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------
悠陽がすぐに火乃香ちゃんを追いかけなかったのは、彼女を追いかければ私が怒ると思ったからね。彼が店長を務めている薬局は私しか常勤の薬剤師が居ないから、私が出勤できないと薬を出す事も作ることも出来ない。文字通り休業よ。
万が一私がヘソを曲げて店を辞めるようなことがあれば、悠陽は火乃香ちゃんを養うどころじゃなくなる。それを危惧して悠陽はすぐに追いかけなかったのね。
私がそんなことくらいで悠陽の元を離れるわけがないのに……本当に、馬鹿な店長で困っちゃうわ。
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