第9話 【4月下旬】水城泉希と決意を新たに

 俺は、泉希みずきが好きだ。


 でも単に『一緒にいて楽しい』とか『性格が合うから』とか、まして『見た目にタイプだから』なんて単純な理由じゃない。

 もちろん泉希は美人だ。それこそ火乃香に引けを取らないレベルで。本当は優しい性格や内面的な魅力にも当然と惹かれている。


 だけどそれ以上に、返し切れないほど大きな恩を彼女に受けている。

 今この店があるのは、泉希の御陰おかげと言っても過言ではないのだから。


 調剤薬局は薬剤師が居なければ成り立たない。『仕事が回らない』という意味ではなく『開設できない』という意味で。そのため薬局開設者の多くは薬剤師の資格を有している。


 だけど俺は薬剤師じゃない。


 俺がまだ大学生だった頃、親父が俺名義の借金を残し蒸発したからだ。オフクロが昼夜を問わず働いてくれて借金は完済できたけれど、その結果オフクロは身体を壊し引退を余儀なくされた。

 俺はオフクロの後を継ぐべく、3浪して入った医大の薬学部を中退しこの薬局みせに入職した。学校へ行く金も時間も、ウチには残されていなかった。


 だから俺は薬剤師じゃない。


 でも、だからこそ頑張ろうと思った。

 売り上げを伸ばすべく見直しと改善に注力した。

 オフクロの代わりを全うするため、従業員を路頭に迷わせないため躍起になって働いた。


 でも現実は非常だった。


 『子供と変わらない若造が偉そうに』

 『ドラ息子め』

 『男のくせに』

 『薬剤師でもないのに』


思い思いの不満を吐き捨て、従業員らは皆この店を去った。

 自信を無くした。

 未来が閉ざされた。

 目的の方角も分からず、灼熱の砂漠を歩いている気分だった。

 相談できる相手もらず孤独にさいなまれ、絶望の淵に追いやられていた。途方に暮れるとはあの頃の俺にピタリの言葉だった。


 「辞めた人の分も、私が働く」


だが泉希のその言葉が、俺に一縷いちる希望のぞみを繋いだ。

 宣言通り泉希は休みも取らず働いてくれた。他の従業員が皆辞めようと、泉希だけは残ってくれた。


 水城みずしろ泉希みずきというオアシスに、俺は命を救われた。


 泉希は今も俺の隣で店を支え続けてくれている。

 名実ともに彼女はこの薬局の大黒柱。雇い雇われの垣根を越えて、いつしか敬語も使わなくなった。俺なりの信頼と友愛の表れだった。


 その感情が恋心に変わるまで、さほど時間は掛からなかった。


 泉希が俺をどう思っているかは分からない。だがまんざら『俺の片想い』という訳ではないだろう。少なくとも『店長と従業員』や『上司と部下』などという表面的な関係には留まらないはず。


 なにせ休日に二人で水族館へ行ったり、カフェでランチをする程度にはプライベートな付き合いがあるのだから。彼女が風邪を引いた時は、自宅まで負ぶさって一日中看病することもあった。ただの仕事仲間としか思っていなければ、ここまで懐には踏み込めないだろう。


 でも、この想いを告白するわけにはいかない。

 伝えたいけど、伝えられない。


 先にも説明したが、調剤薬局というのは薬剤師が居なければ成り立たない。薬剤師免許を持たない俺でも経営は可能だが、患者様に薬を出す服薬指導や薬を調剤する行為は法律で禁止されている。


 だから今泉希が辞めてしまっては、俺もこの店も終わりということ。


 もしも俺が泉希に想いを打ち明け、万が一NGを出されれば間違いなく微妙な関係になる。居心地が悪くなるのは明らかだ。


 それこそが最大の懸念。


 他の従業員が居心地の悪さを感じ辞めてしまったように、泉希もまたこの店を辞めるかもしれない。

 仮にOKを貰っても、痴情ちじょうもつれが原因で俺と諍い、やはり店を辞めてしまうかもしれない。


 だから、あと一歩が踏み出せないでいる。


 リスクを冒して泉希との距離を近付けるよりも、今の関係を続けるほうが良い。弱気な考えばかりが頭に浮かび、理想よりも現実を優先してしまう。


 火乃香に手を出さない理由も、そこにある。


 もしも俺が火乃香と関係を持とうものなら、泉希は間違いなく俺を軽蔑するだろう。それはこの店の終わりを意味する。

 好きな女と大切な店を失い、仕事も失っては火乃香を養うどころの話ではない。


 とはいえ、火乃香を見捨てる選択肢は無かった。


 感情的になってはいたけれど、もし俺があのまま火乃香を帰していたら、それこそ泉希は激怒し俺を否定していたことだろう。


 なにはともあれ、俺は絶対に間違いを犯すわけにはいかない。泉希のためにも火乃香のためにも、俺自身のためにも。

 昨日は火乃香の可愛さに思わず一線を越えそうになった。だけど俺はもう間違わない。二度と誘惑に負けたりしない。


 社会人として経営者として、オフクロから継いだこの薬局を守るために。


 火乃香が笑顔で居られるように、彼女の保護者役を全うできるように。


 そして……泉希への想いを遂げるために。




-------【TIPS:水城泉希の服薬指導メモ】-------


実を言うと、私も火乃香ちゃんと同じように母子家庭で育ったの。私の母は水商売で、お酒を飲まない日は無かったくらい。それが原因で母は私が大学生の時に事故で亡くなったわ。

 だから悠陽が火乃香ちゃんを引き取ると聞いて、驚きと怒りがあったけど安心と納得も大きかった。彼の言う通り、もし火乃香ちゃんのことを見捨てていたら……私自身、分からなかったわ。

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