第4話

 ハァ~?! なんつうバア様だ! 実在のご老体がこんな手ごわい相手とは思わなかった。コンビニバイトをはじめてから万引きも直接見たことないってのに、こんな堂々と他人の犬を自分の犬なんて詐称するだと?!


 いや、やっぱりあんな堂々と主張されると、こちらの眼が節穴という気がしてきた。おばあちゃんは、わかりやすい悪人のようにふるまったりしない。今も学生くん達とニコニコ立ち話をしている。だが気づいてくれ学生諸君、犬を愛する者が夕方散歩させるなら、自分も安全のために反射材たすきぐらい身に着けているはずなんだ。叉科囲サカイさんがそうしていたからそう思っただけだが。


「あーよかったねえ、おばあちゃん。いぬちゃん逃げて大変だったでしょ」「もう離さないように気をつけてね、犬も逃げるなよ」「ありがとう、ありがとうねえ」


 道の反対側で他の帰宅学生集団がほっこり犬を見つめていたり、犬は首輪にリードを繋がれ直され、困っているのか喜んでいるのかわからないけれどくるくるおばあちゃんの周りを歩いたりしている。なんて和やかで幸せそうな景色だろう。この平和な世界に僕が割って入れと? 犬泥棒の確証もないくせに? 犬の判別がつく叉科囲サカイさんもいないのに?


 無理だと思った。けれど次の瞬間、深く諦めかけていた僕の身に不思議なことが起こっていた。


「あの、あの~、ちょっといいですか?」 間違いなく僕の意思で、和やかな場に影を落とすために、おばあちゃん達に声をかけた。だがこの場で一番びっくりしたのは僕自身だったと思う。なぜ自分が動けたのかわからないまま動いている。僕は続きをやや早口になって話す。


「すいません、なんて?」 早口過ぎてちょっと聞き取ってもらえなかった。僕は頑張ってゆっくり話す努力をした。そうだ、せめて叉科囲サカイさんが到着するまで引き留めなくてはいけない。


「その犬は、ひょっとするとおばあちゃんの犬ではない、可能性が、ありますので、お話を聞いてくれませんか」


 僕を見返すおばあちゃんの顔。やや訝しんでいるのは当然で、ほかはなんのおかしさもない顔だったが、あの日ずぶぬれの叉科囲サカイさんよりずっとずっと怖かった。だが僕は引かなかった。


 なぜなら今の僕は、犬を愛するセンパイの祈りと、犬の飼い主の叉科囲サカイさんの祈りを背負っていたからだ。センパイにゲンちゃんを僕なら助けられると信じられて、責任を負ったからだ。僕の目のことは信じられなくても、センパイの審犬眼なら信じてみようと思ったから。自負が負け犬の僕を少しだけ前に進ませてくれるなら、やめるわけにはいかなかった。


「そんなことありませんよぉ、この子はうちのクロです」 おばあちゃんは堂々と言った。「でもほら、後ろの尻尾の付け根らへんに」「うちのクロです」 おばあちゃんは頑として譲らなかった。


「……クロちゃん? クロですか?」 犬は返事しない。「うちのクロです」


「……ゲンちゃん?」 あ、今、耳が少し動いたような気がする。「うちのクロです!」 男子学生諸君がこちらを不審者を見る目をしているうえに、おばあちゃんがリードを引っ張って去ろうとしてしまう!


(ウ、ウギャ~!!) 声には出さなかったが僕は完全にパニックだった。というか叉科囲サカイさんを待たずにおばあちゃんに声をかけた時点でらしくない。心臓バックバクだった。逃げ場もないのにパニックになった人間が次に何をするのか? 拳が出るか涙が出るかその人次第だろうが、僕の場合は携帯電話に迷いなく三ケタの番号を入力していた。


「もしもし、事件ですか事故ですか?」「すいませんもしかしたら犬泥棒が目の前にいるかもしれないんですけどこういう時はどうすればいいですか? えっ、あっ、事件です!」


 人は悩みを抱えきれない時、他の人に助けを請ってもいいのだ。僕だってセンパイに頼られたが、僕一人で捌ききれないなら他の助けを呼ぶのは間違っていないと今でも信じている。だがそこから先はもう、本当に輪をかけてめちゃくちゃになってしまった。


「こんのわらす! クロはわだしのイヌだぁよ!!」「フギャアーッ!! も、基町中学校前!!!」「アッ、ばあちゃん! いぬ逃げちゃう犬!!」


 カッと目を見開いて僕の服を掴んでくるおばあちゃん。リードを引きずりながらまたも逃げ出す黒犬、焦った末に手元から投げ飛ばされる僕の携帯電話、状況にドン引きしている純朴な男子学生二名はおろおろするばかりで走る犬を捕まえることもできない。


 人を目の前で犬泥棒扱いしたらそりゃあ誰だってとりあえず激怒するよ。なんて失礼なことを後先考えずやらかしたんだ。ああもう全然うまくいかない。全然格好つかない。僕が絶望していた時だった。


ゲンちゃんっ!」


 叉科囲サカイさんが、向こう側で愛犬の名を呼んでいた。推定ゲンちゃんの黒犬は、ひとつ吠え、おじさんの元に力強く駆け寄り、胸に飛び込んで、もうちぎれんばかりに尻尾を振っていた。おばあちゃんの前ではそんなに喜んだ尻尾の振り方しなかったろう、ってぐらい。


 センパイは間違っていなかった。僕は犬には詳しくないが、犬の尻尾と飼い主の声を聞いてそう確信した。それに立ち会えただけで、僕は人生でも稀に見るほど頑張ったんじゃなかろうか。


 ほどなくしてサイレンの音が聞こえてくる。法治国家に住んでいてよかった、心の底からそう思った。

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