第3話

 僕はルーザードッグもいいとこだ。気取った言い方をやめて、お上品に言い直してもお負け犬だ。


 僕は世の中を心底憎むほど不幸じゃないが、日頃からクサクサしているのに自覚的だった。具体的な行動はなにも思いつかないくせに、いつか周囲になにかしらの反逆をバシッと決める機会があればいいのにと願っていた。そして迷い犬を犬泥棒から救う機会は、まさしくいつもと違う自分になれるチャンスであったはずだ。なのに僕は目をそらした。


 事件があっても、自分はここぞという時に動けない役立たずであることをこれでもかと思い知らされただけだった。なので、とんでもなくへこんでいる。それでもシフトが来れば平時通りに職場に出向いて、いつも通りに仕事しないといけない。それが生活に必要だからだ。


 職場に着くと、まずは嫌でも迷い犬のポスターが目に入る。今の僕には愛らしい犬の視線が苦しい。苦しいくせに、紙面の内容をつい見つめて読み直してしまう。


 黒っぽいむくむくの毛皮。尻尾から足にかけて稲妻みたいな特徴的な模様。首輪は赤紫色。名前はゲンちゃん、名前だけだと男の子みたいだけど性別はメス。性格はおっとりおおらかなタイプ。×日の夜中に、犬小屋につなげてあったリードが外れており、そのまま行方不明になった。公的機関に届け出済み。見かけた人のための連絡先、電話番号……。


 あの時、疑惑ぎわくのおばあちゃんに声をかけるか、それともすぐにこの連絡先に通報していれば、このポスターもなにか変わったのだろうか。なにも変わらなかっただろうか。


 今までの人生で見たことのある『迷い犬探しています』のポスターが、何枚あったか数えてみる。思い出せた中でほとんどのポスターは気がついたら消えているものだったが、その中の一枚だけ『見つかりました! ご協力ありがとうございました』と大きな文字が上から重ねられていた。このゲンちゃんも、なんの確信もないくせに『無事でした!』とお知らせしてもらえるものだと思っていた。僕はふっと目線をそらした。


 ポスターの斜め上のあたりのガラス面には、ゲンちゃんの代わりに僕の意気地なさをとがめるように、病んだ幽霊の顔が浮かんでいた。かすかに残った西日を浴びながら、それでもなお絶望を背負った暗い表情をしていた。


 瞬間、『フギャア』とか自分の喉から妙な悲鳴が出たような出なかったような。もちろんそれは本物の幽霊の顔ではなく、陰気な自分の顔が反射したものでもない。センパイがガラスの向こう側から外を覗いているせいだった。そしてドアが開いて、センパイが僕の脇を通り抜けていく。


「せ、先輩? どうしたんです」「ごめん、ちょっと、店よろしく」「え?」 センパイの表情は、暗いだけではなく鬼気迫る険しさが同居していた。初めて見る顔だった。


「そこにゲンちゃんがいたんだ」「え?」


 僕も振り返ってみると、たしかに黒犬が一匹だけで、向こうの道路をトコトコ渡っていた。


「いや、でもあれって」 遠目になるがちょっと冷静に見れば首輪の色が違うんじゃないかとか、そういう声かけも叶わないうちに、センパイは全速力ですっ飛んでいる。


 そこでわかった。


 僕は、たとえばこの世界が漫画だとするなら神様さくがは先輩と僕のツラのかき分けができないものだと想像していた。舐めてるつもりじゃないけれど、ちょっと侮っているか、嫌な親近感があるというか。陰陽なら陰キャの方達、職にありつけずひとまず入ったバイトでごまかしている僕と、僕より年上なのにやはりバイトでフラフラしてそうなセンパイ。


 でも虎三津トラミツ先輩は、当たり前のことだが僕とは違った。愛する者のためなら後先考えずに走り出すことができる男だったのだ。僕にはもっていないものを背負う、先輩の姿がまぶしくみえた。本当に久しぶりに、他人のことを心から尊敬していた。


 そうやってちょっと感動的だったのが、件の先輩がなぜかすごい速さでUターンして僕の眼の前に戻ってくるのだった。


「助けてくれェ西戸野ニシドノくぅん!!」「なんであんな必死に走ってたのに戻ってきたんですか?!」 本当に思い当る理由がないので動揺しながら聞いてみた。


「おれは……犬は大好きだが、犬に触ることはできないんだ!!」 そうだったアレルギーがひどいって言っていた。


「ちょっと触ったり近づいたりするのもダメなんですか?」「触ったあとで体中かゆくなるなんてこの際いいんだ! だけど生まれてから一切触れたことがない生物を、ナマの犬を丁重に捕まえなくてはいけないのは怖いんだよォ!」 もっとしょうもない理由だった。傷つけあうのを過剰に恐れるハリネズミか異性を意識しすぎる思春期か?


「それでも僕より先輩の方が適任ですよ、僕なんて犬に対する熱意がないんですから!」「そんなっ、それが迷い犬を前にした人間のセリフか?」 尻尾巻いて逃げてきたくせにうるせえし面倒くせえよ! そもそも言い合いをしている場合ではない、こうしている間にもゲンちゃんらしき犬はどんどんトコトコ歩いて行って見えなくなってしまう。


「――っああもう、わかりましたよ! じゃあ、遅刻理由にはのっぴきならない事情があったってあとで先輩も申し添えてくださいよ!」


「頼む! 自分と相手の安全をよく考えて、万が一に噛まれるのを考慮して手袋があればつけておいたほうがいい! 姿勢を低くして名前を呼んであげれば大人しく保護されてくれるかもしれない! 飼い主の叉科囲サカイさんは近所に住んでいるから電話したら出てきてくれるかも! あと怖がられないようにするためには」


 後ろの方でセンパイはまだなんか言っているが、走っているうちに聞こえなくなる。遠巻きに一部始終を見ていたらしきお姉さんに、やや奇異の視線で見送られた気がするのが恥ずかしい。センパイの意気地なしめ、大馬鹿め、見直したのをめちゃくちゃ後悔してやる。


 僕はコートのポケットに突っ込んだままだった携帯電話を取り出して、すでにうろ覚えの電話番号を直接入力した。


「もしもし、セキマート基町モトチョウ南店の西戸野ニシドノです。叉科囲サカイさんですか? 今よろしいですか? あっ、そうですもらったポスター貼ってあるコンビニのとこです。 ゲンちゃんらしき犬をうちのコンビニの近所で見かけたので、こちらの番号にお電話しました。今は見失わないようにゆっくり追いかけているんですけど……そう、基町中学の方角です、ハイ、わかりました! お待ちしています!」


 番号を誤らず一発で通じたことと、噛まずに正確に主題を伝えられたことに、僕はささやかな手ごたえを感じて小さくガッツポーズを取った。あとは仕事先で電話かける時みたいな喋り方したのが変じゃないか、走りながらのせいですごいゼエゼエ言っていたので情けなく思われなかったか願うばかりだ。


 フリフリしている黒尻尾をはっきり視認できるのと同時に、僕も全力疾走から次第に競歩ぐらいの速度に落としていく。怯えさせないように、逃げられないように。対象との距離は十メートル程度に縮んできた。


 どうやらゲンちゃんと思しき犬の迷いのない足取りは、どうも叉科囲サカイさんの家への道をまっすぐたどっているように見えて……これ、僕が追っかけなくても自然解決したんじゃないか? そう思うと脱力感に襲われて、ちょっと倒れるかもと思った。


「おっ、犬! こんにちは!」 僕がぼんやりしていたら、物怖じという概念を知らなさそうな男子学生二名が推定ゲンちゃんの前に立ち塞がっていた。丸刈り頭のせいで野球部員な気がする。


「犬ちゃーん、わお、人なつっこ! どうした? 迷子か?」 男子学生の片割れは屈んで手を伸ばし、黒犬はそのままおとなしく頭を撫でられていた。「野良に触るなよ」「後で手洗いすりゃいいんだよ。ていうか首輪ついてるし。これ飼い主が探してるんでないの? 大丈夫か? お前ちょっと疲れてるか?」「あ……そうだ、見たことあるかもじゃん。あのコンビニの張り紙の……」


 自然に足止めしてくれてありがとう学生君、君の言う通りだよ。直にその子の飼い主がこっちに来る。その前に追いついて僕の方から事情を話しておかねば……その瞬間、僕より先に男子学生くんに声をかける者が現れた。


「まあまあ、すいません! それ、うちの犬なんですよ」


 声の主は叉科囲サカイさん、ではない。忘れもしない、あの夕暮れにすれ違った温厚そうな顔つきのおばあちゃんだった。

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