第576話 寧々さん、江戸に入る(13)
天正10年(1582年)1月上旬 武蔵国江戸城 寧々
年が明けて、年賀の祝賀行事と同時にこの豊臣家の人事が発表されたことから、今、楽しい酒宴が始まったというのに皆の顔は様々だ。明らかに嬉しそうにしている者、普段通りの顔をしている者、そして……落ち込んだり、苛立ちを見せる者と。
ただ、ここで苛立ちを見せるような者は愚かとしか言いようがない。自分で自分の事を「反逆者予備軍」と認めているようなものだ。そして、そんな連中に半兵衛が優しいはずはない。きっと、遠からず排除されることになるだろう……。
「まあ、そんなことより……久しぶりのお酒、おいしいわね♪」
妊娠中は飲みたいのを我慢して、夢にまで出てきたお酒。今日から解禁ということで、面倒なことはパァっと忘れて、もうやるしかないでしょ!
しかし、そんなわたしを見て、ため息をつきながら嫌みったらしく止め立てしてくる男がいる。
もちろん、それは皆の嫌われ者・弥八郎だ!
「何よ……あんた、法政長官になったんだから、もうわたしの部下じゃないのよ?いちいちわたしのすることに口出ししないでよ」
「それがですな、寧々様。某、先程長官になって初めての仕事を行いましてな。豊臣家の法度に念願の『寧々様、お酒は1升迄』と追加したのですよ。ですので、早速ではございますが……長官の名において職務を執行いたします。御免!」
「ああ!わたしのお酒と杯をどこに持っていくのよ!!」
しかし、いくらお願いしても嫌われ者の弥八郎は返してくれない。だから、仕方なく……この城中を取り仕切る城政長官に任じられて、政元様と話に夢中になって席を開けている樋口の膳から徳利をくすねる。器は……汁物を空にした椀を使うことにして。
「おやおや、いけませんな。法の番人たる法政長官殿の言うことを聞かずに、そこまでしてお酒を飲もうとされるとは……」
「は、半兵衛!?」
「なまじ、膳を残しておくと、このように未練が残るのですな。ならば、これも取り上げるということで………」
「ああ!わたしのお酒!それに、鯛の天ぷらは最後にと思って残しているのに!!」
しかし、執政長官に就任した半兵衛は、外政長官の慶次郎を従えて、笑顔でわたしから膳ごとお酒を持っていく。あれ?これはもう帰れということかしら……。
「仕方ないわね……截流斎。あんたのお酒、貰うわね?あと、鯛の天ぷらも……」
「寧々様!?」
驚いているが、文句は言わせない。わたしが拾ってあげたからこそ、この男は新次郎の推挙もあって此度の人事で民政長官に任命されたのだ。徳利の1本や2本、鯛の天ぷら位は謝礼の利息として提供するのは当たり前だ。
「はぁ……仕方ないですな。寧々様、某のも差し上げますから、それをお飲みになられたら大人しくお部屋にお帰りになられるのですぞ」
「ありがとう、佐吉!流石は財政長官よね。話が早いわ!」
「あの……意味が分からないのですか……」
ただ、飲み終わるや否や、今度は軍政長官になることが決まった孫市が上機嫌で徳利を差し出してきた。
「あらぁ♪孫一もありがとぉ!それにしても、本当に嬉しそうねぇ」
そんなに軍政長官になったことが嬉しいのかと思って訊ねるが、孫一はその言葉を肯定した。
「寧々様、必ずや我が豊臣軍を天下随一の精鋭に鍛えて見せましょうぞ!」
そして、そう大きな口を叩いて、孫一は徳利だけ残して去っていく。酔っ払って少し千鳥足だが、それでもまた喜びを伝えようとしているのか、今度は蜂須賀彦右衛門を捕まえようとしていた……。
「それにしても、意外よね。そう思わない?佐吉」
「寧々様、それは?」
「だってうちの軍って、これまでは慶次郎が第一の将だったじゃない。だから、軍政長官は慶次郎がなると思っていたから……」
それなのに蓋を開けたら、慶次郎は外政長官となり、軍政長官は孫一が就くことになっていたのだ。どうしてそうなったのか、いまいち理解が追い付かない。
すると、そんなわたしに佐吉は答えてくれる。慶次郎が外政長官になったのは、これから最も重要になるのはこの役職であると半兵衛が見ている事、そして……その半兵衛が最も信頼し、頼りにしているのが慶次郎であるからだ……と。
「それに寧々様の事ですから、またどこかで余計な揉め事に首を突っ込むかわかったものではないじゃないですか。その時の尻拭いをするためにも、慶次郎殿ならば……と」
「なにそれ!一体誰がそんな事を言っているの!?」
しかし、佐吉は……今の言葉は政元様を含めたこの豊臣家の最高幹部たちの総意だと言った。そして、わたしも悔しいけど否定しきれないだけに、半ばやけくそになって残された酒を飲み干していく。
鬼が眉間にしわを寄せながら、すぐそこまで近づいてきていることに気づかずに……。
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