第319話 寧々さん、未来の名将を青田刈りする
天正2年(1574年)2月上旬 遠江国龍潭寺 寧々
寺の外では変わらず剣戟が交わる音がしている。先程、勝蔵君の配下から聞いた話だと、今、寄せているのは夏目何とかの兵だとか。
ただ、流石にここまで多くの将兵を容赦なくあの世に送っているので、徳川も本気になってきているようだ。数も倍近くに増えているし、少ないながらも鉄砲もちらほら使っているらしい。もちろん、勝蔵君も負けていないらしいが。
「弥六郎。準備はできた?」
「はい。ですが、よろしいのですか?こんなことして……」
「半兵衛の策でしょ?だったら、何も心配することないわ」
え?何をするのかですって?
弥六郎は大げさに言っているが、そんなに大した話ではない。敵に見えるように旗をこの庭に立てるだけだ。但し……その旗は錦糸で織られていて、皇室の紋所である「菊の御紋」が 刺繍されている。
「さあ、掲げなさい!」
そして、わたしはそう命じ、弥六郎の兵たちは言われるままに旗を立てた。これでこの先、この寺に弓矢、あるいは鉄砲を撃ちかければ、徳川糞康はめでたく朝敵だ。捕まえたら、国松が殺された六条河原で嘘つきの舌を引っこ抜き、その後はバラして狸鍋の刑に処そう。きっと、天国に居るあの子も喜ぶはずだ……。
パン、パン!
お……!どうやら、奴らは愚かにも朝廷に弓を引いたようだ。
「しかし、寧々様。勝たなければ意味がないのでは?」
「うるさいわね、わかっているわよ」
そうなのだ。弥六郎の言う通り、糞康を狸鍋の具材にするのも、このいくさに勝たなければならないのだ。だが、こんな手の込んだことをしておいて、半兵衛が何も手を打たないはずもなく……
「おい、寧々殿!寺の北に武田菱の軍勢が……」
「申し上げます!敵の背後に五七の桐紋の旗印が!」
やはり、追加の援軍をよこしてくれたらしい。
「弥六郎、頃合いです。これで連中も戦意を失うでしょうから、降伏を呼びかけてください。但し、自分たちが朝敵になったことがわかるように、『朝敵・徳川次郎三郎の将兵に告ぐ』と……そのことをはっきり付け加えるのを忘れずに」
「承知いたしました」
朝敵になった以上、糞康の『従五位下三河守』の官位は剥奪だ。そのことを思い知らせるために、わたしは糞康のことを仮名で呼びかけるように弥六郎に命じた。さて……これで相手はどう出るか。
「悪辣だな……」
「次郎法師殿?」
「しかし……その強さは、同じ女性としてはうらやましく思う。それで……一つ頼みがあるのだが」
「頼み?」
一体なんだろうと思っていると、次郎法師殿が「入れ」と外に向かって言った。すると……顔のきれいな少年が、この場に現れてわたしに挨拶をした。
「井伊虎松にございます。この度は、お目通りが叶い光栄にございます」
井伊虎松……のちに腹黒狸の手先として悪名を馳せることになる井伊直政であることは、すぐに理解をした。どこか面影がある……。
「それで……この虎松殿と頼みごとがどう関係しているの?」
「寧々殿を見込んで、預けたいと思うのだ」
「預けたい?それって……うちに仕官させるってこと?」
それは、わたしとしては願ったりかなったりだが……この虎松君は井伊家の跡取りではないのか?そのことが気になって、わたしは次郎法師殿に訊ねた。この井伊谷の領地をもしかして捨てるのかと。
「捨てるつもりはない。わたしは、この谷に生まれ育ったからな。しかし……ここまで徳川の将兵を殺したら、例え寧々殿が仲裁に入られてもいずれ難癖をつけられて我らは滅ぼされてしまうだろう。だから、この子には他の土地で井伊の血を繋げてもらいたいのだ」
なるほど。確かにあの糞康はしつこいから、次郎法師殿の懸念は的外れではないかもしれない。無論、そんなことにならないようにできるだけの手は尽くすつもりだが、今は何を言ってもきっと空手形と受け取られるだろう。ならば……
「わかりました。虎松殿の身柄は、このわたしが責任をもって預からせていただきます」
忠元の方は人材豊富だから、虎松は竹松に付けよう。そう思いながら、初めての対面を終えたところで、勝蔵君から知らせが届く、糞康本人がどうやら門前に現われたようだ。
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