第235話 寧々さん、信玄公と邂逅する(前編)

元亀2年(1571年)4月中旬 越前国府中郊外 寧々


「晴信……?まさか、それって……」


わたしは、無人斎の言葉を聞いて目を丸くして驚いた。晴信と言えば、甲斐の虎・武田信玄公の諱である。


(なんで!?なんで、そんな大物がこんな場所に居るの?なんで!?)


もしかして、年老いた父親を迎えに来たのだろうか。それならば、理解はできる。いくら昔、国を追い出すほどの大喧嘩をしたとはいえ、無人斎もかなりの高齢だ。子としたら心配になるのも無理はない。だが……


「別に貴様に会いに来たわけじゃないわ!引っ込んでろ、糞親父!」


「なに!?貴様……親に向かって、その口の利き方はなんだ!おのれ……その首刎ねてくれる!」


「はん!老いぼれにやられるほど、儂はまだ衰えてはおらぬわ!!」


……などと、互いにいい年をした爺さん同士なのに、早速喧嘩を始めたところを見ると、そうじゃないのかもしれない。


(ならば……)


そういえばと、わたしは思い出す。信玄公は確か半兵衛と同じ病気、労咳で亡くなったはずだ。そして……その治療薬の開発をお稲殿がここで始めている。


「あの……もしかして、労咳の治療薬を求めてここに?」


「えっ!?」


「え……?」


無人斎が振り回していた刀を鉄扇で受け止めていた信玄公が驚いたように声を上げてこちらを見たので、わたしも思わず声を漏らしてしまった。どうやら、これもここに来た理由ではなかったらしい。


しかし、ここに来た理由ではなかったのかもしれないが、わたしの言葉に信玄公は食いついた。


「治療薬とは……治るのか?毎晩続くこのしつこい咳からも、無理をするとすぐに血を吐く日々からも、解放されるということなのか!?」


どうか答えてくれと、信玄公は無人斎を放り出してわたしに詰め寄ってきた。だから、その迫力に負けてしまい、つい答えてしまった。ここでお稲殿が治療薬を作る研究をしていることを。


「ただ……研究は始まったばかりでして、実際にはまだ何も……」


「そうか……まだ薬は開発されていないのか」


その途端に落胆される信玄公を見て、少し可哀想に思った。前世の記憶だと、あと2年程でこの世を去られるはずだ。志半ばで。


「ならば……親父。一緒に死ね!うつしてやる!!」


「馬鹿、やめろ!儂に向かってわざと咳をするな!」


「いいじゃないか!ゴホゴホゴホ!!……さあ、死ね!」


「うわぁ!汚い!!」


……前言撤回。全然かわいそうじゃない。というか、老い先短い無人斎は構わないけど、シレっとわたしにもかかるように咳をしないでほしい。


「一応、消毒液を用意したわ。すぐにうがいしたら大丈夫だから、安心して」


「ありがとう、お稲殿。早速そうさせてもらうわ」


わたしはその消毒液を手に取り、その場で口に含みうがいをした。そして、勧められるままに手拭いを口に巻く。お稲殿曰く、これで病の元は体の内に入ってこないらしい。ホントかどうかは知らないけれど。


「それで……本当は何をしに来られたのですか?」


未だに老人同士で追いかけっこをしている信玄公に、わたしは訊ねた。こうなると、彼の目的が分からなくなったからだ。すると……


「実はな、貴女に会いに来たのだ。春日局殿」


……と、全く思いもよらぬ言葉を信玄公は言い放った。先日の叡山問題にわたしが関与したことを知って、態々この越前までお忍びで来たと。


「でも、確か武田家って今、遠江で徳川様と……」


「ああ、あちらは弟を影武者にして、軍の指揮は倅に任せておる。徳川程度なら大丈夫だと見込んでな」


「それは大層な自信で……」


ただそれでも、甲斐からこの越前は遠い。しかも、信玄公は病を得ているのだ。それなのに、なぜわたしに会いに来たのか。


「まあ、貴女が不思議に思うのも無理はないな。それゆえに、儂も腹を割って相談したい」


「相談……ですか?」


「ああ。我が武田家の行く末を……少々な」


それはまた重い相談で……と思いながら、わたしは信玄公を一先ず府中の屋敷に招くことにしたのだった。

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