第233話 甲斐の虎は、叡山の顛末に思案する
元亀2年(1571年)4月上旬 甲斐国湯村 武田信玄
「ほう……叡山は、焼かれなかったか」
その望月千代女の報告に、儂は思わず心の内を見せてしまった。いかん、いかん。君主たるもの、例えこのように温泉につかってゆっくりしているとはいえ、油断なく考えを外に漏らしてはならない。孫子曰く、「知り難き事、陰の如し」だ。
「……それで、なにがあった?」
石山の義弟殿からは、加賀の坊主が叡山を煽り、信長と全面戦争に持ち込む算段がついた という知らせを受け取ったばかりだ。儂もその内容ならばと成功を疑っていなかっただけに、容易ならぬ理由があったとみた。
「どうやらまた、例の春日局が動いたようでして……」
「そうか」
だが、望月からその答えを聞いて、特に驚きはなかった。
春日局——別名、徳利女は、これまでも二度、儂の予想を覆して変事を丸く収めた女傑だ。ならば、此度の件も関わっているのならば、別段この結果はおかしなことではない。
「それにしても、春日局か……」
前に報告を受けているが、クソ親父がその女の家来になったらしい。しかも、儂に内緒で我が孫子の旗を掲げて戦うとは、耳にした時はとっても腹が立ったものだ。さらに、ニセ赤備えまでも……。
「お屋形様?」
「ああ、すまぬな。少しその女のことを考えていた。そういえば……そなたは京で近衛家に忍び込んでいるとき、見たことがあるというておったな。どんな女だ?」
「……とても教養が深く、茶の湯、琴、歌、華道、女性として身に着けるべきものは、摂関家の姫君でも敵わない程に全て完璧に備わっております。さらに武芸では、上泉様から新陰流の目録を与えられるほどの達人で、銃を握らせれば大物討ちの名人、薙刀でも……」
「ま、待て!何だ、その完璧超人は!? そんな奴が本当に実在するのか?」
「はい。しかも、これだけではありません。智謀にも弁舌にも優れ、主上からは 『我が心』、公方様からも『心の母上』と全幅の信頼を寄せられておりますし、さらに容姿も評判の市姫ほどではないとはいえ、男が100人すれ違えば、95人は股間を膨らませるほどの美人でしょう」
「……なにか、なにか欠点などはないのか? そう……これはないぞというものは……」
「……そうですね、ないものがあるとすれば、お金とお酒を飲む権利くらいですかね。ただ、お酒を飲ませれば、もう誰にも止めることができないことは、例の噂の通りですのでお勧めはできません」
「すると、目がくらむとすれば、金目の物ということだな……」
但し、金がないと言っても、15万石を領する大名の奥方だ。本当の意味での貧乏ではない。それゆえに、そんな化け物を相手に勝てる気が全くしなくなった。
(さて、どうするか……)
ここで儂は改めて、現在の我が武田家の方針を考えた。現在、弟の信廉が儂の身代わりとなって遠江の徳川と戦っているが、果たしてこのままでよいのかと。無論、徳川如きに負ける我らではないが、その先には織田、さらには徳利女が控えているとなれば、話は変わってくる。
このまま織田と戦い、天下を目指すか、あるいは武田の家を残す方向に舵を切るべきか……。
上洛を願った妻・三条も、その申し子たる息子義信も、最早この世にはいないのだ。もちろん、ここで天下を諦めることは二人に申し訳ないが、それ以上に武田を潰すことは新羅三郎義光公以来のご先祖様に申し訳が立たない。さあ、どうするべきか……。
「お屋形様……」
「ん?なんだ、千代女。言いたきことがあれば、申してみよ」
「では……」
そう前置きして、望月が申したのは、迷いの元となっている春日局に直接会いに行ってはどうかということだった。幸いにして、今は信廉が儂の身代わりとして戦っており、こっそり越前に行っても、気づかれる恐れが少ないのではないかと。
「なるほどな。それは、よき思案だ」
……となれば、思い立ったら吉日だ。儂は旅の支度をするべく、さっさと湯から出ようと立ち上がる。すると、顔を真っ赤にしながら千代女は目を逸らしたのだった。
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