寧々さん、藤吉郎を振る!

冬華

プロローグ 寧々さん、1周目の人生を終える

寛永元年(1624年)9月上旬 京・高台院屋敷 寧々


「ゴホ、ゴホっ!」


ああ……咳をしても独りだ。もちろん、枕元の鈴を鳴らせば、養子の利次か、あるいは誰か寺の者が駆けつけてくるだろうが……無論、そういう意味ではない。


「藤吉郎さ……」


これからきっと、わたしはもうすぐ冥途へ旅立つのだろう。さっきは、鈴を鳴らせばと思ったが、もうそんな力は残っていない。腕が重くて上がらないのだ。何十年も前に亡くなった亭主の名を呟いてみたものの、おそらくこれが最後の言葉になる予感がした。


『どうして、こんなことになってしまったのか』


人は死ぬ寸前に、これまで生きてきた記憶が順に思い出していくと誰かから聞いたことがあったが、まさに今はその最中だ。ずっと昔に藤吉郎さに求婚されて、それから二人三脚で天下人の妻にまで上り詰めた日々。


北政所と呼ばれて、大坂城で多くの者に傅かれて……それはそれで気持ちが良かったけれども、果たしてそれが私の求めていた『本当に幸せ』だったのか。


(……違う。わたしは、栄耀栄華を楽しみたくて、藤吉郎さの嫁になったわけじゃない)


本当は程々でよかったのだ。家族全員が幸せな日々を送れるというのなら、普通に食べられる程度の稼ぎで十分だったのだ。広い御殿も美しい着物も、必要ではなかったのだ。


それなのに、過ぎたる権力を得たがゆえに、今は家族どころか一族の者すらほとんどこの世にいない。甥の秀次とその家族も、茶々が産んだ秀頼とその子らも、権力闘争の中で命を落とし……自分が死ねば、『豊臣家』は完全に消滅するのだ。


(むなしい……これでは、何のためにこの世に生まれてきたのか……)


この部屋には誰もいない。随分長く生きたけれども、結局自分は何も残せなかったと思い知った。もちろん、末期がいよいよ近づき、心が弱っているのだろう。だが、考えずにいられない。自分のやってきたことに何の意味があったのかと。


(もし、次の世があるならば……)


まず思ったのは、もう天下人の妻はこりごりだということだ。別に今でも藤吉郎さのことは嫌いではないが、もし次があるのなら、他人が良いと。


そうしていると……ついに記憶の場面は大坂城炎上、そして、この高台院での寂しい日々へと移っていく。だから、いよいよだと覚悟を決めた。

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