第9章 ビー・レディ・トゥ・ダイ ー③

 妹の世話に母の世話。

 今まで何度繰り返してきたか分からない日常。

 今日は花住綾香が朝早くから訪ねてくるという例外はあったのもの、母も妹もいつも通り、久鎌井もいつも通りの土曜日を過ごしていた。


 しかし、もうすぐで非日常がやってくる。


 時刻は午後十一時半。

 明かりを消した部屋の中、久鎌井は一人椅子に腰掛けて淡々と時が過ぎるのを待っていた。

 母親はまだ一階で酒盛りをしているが、舞奈は先ほど床に就いた。久鎌井もいつもならとっくに寝ている時間だ。

 しかし、彼は眠気など感じていなかった。

 心は静かに、暗く燃え上がっている。


カチッ、カチッ、カチッ……


 一定のリズムで動く秒針。刻むのは時か、少年の心か。

 雑念は切り捨てられ、日比野への憎悪だけが鋭く切り抜かれていく。

 日中、時折悩まされた頭痛も、今はなかった。

(さあ、そろそろだ)

 久鎌井は窓を開けた。


『待ちに待った時間だ。ようやくあの男を殺せるな』

 久鎌井の頭の中で、もう一人の自分が囁く。


「ああ、そうだ」

 もう、彼の準備は万端だった。


 ふと、彼の脳裏に今朝の綾香の言葉が思い出された。

――そんなの、殺すなんて久鎌井らしくない!――


(彼女は何も分かっていない)

 自分の中にある日比野への憎悪。

 あいつさえいなければ、あいつを殺しさえしておけばと、心が騒ぎ立てている。

(これが俺なんだ)

 盾を掲げて守る守ると叫んでいた自分など、未熟な馬鹿者に過ぎなかったと気が付いた。

(だから、行く)

 久鎌井は屋根に出て、窓を閉めた。

 そして、まだ酒盛りをしているであろう母親に気づかれないように、静かに夜へと飛び出した。



― * — * — * —



 土手沿いに黒い車。

 橋の下に人影。

 久鎌井がパンドラの二人に初めて会ったときとよく似たシチュエーションだった。

 しかし、違うのは彼の行く手を阻むようにして花住綾香が立ちはだかっていることだった。


「まだ、邪魔をするのかい?」

 久鎌井は彼女に尋ねた。

「久鎌井は、どうしても戦うというの?」

 綾香は右手に洋弓を持っていた。

 制服の上には胸当てをし、ウエストポーチを下げている。

 それは、久鎌井には戦うための装いに見えた。


「ああ、そうだ。君のその格好を見る限り、力ずくで俺を止めに来たのか?」

「そんなつもりじゃない!」

 綾香は激しく首を振った。

「じゃあ、どういうつもりなんだ?」

 久鎌井は、ゆっくりと彼女に近づいた。

「お願い! こんなことはやめて!」

 綾香の叫びにも動じることはなく、久鎌井はそのまま彼女の横を通り過ぎた。


「やい、遅いぞ」

 橋の下にいたはずの日比野が、いつの間にか土手を上がっていた。

「何だ? 一人じゃ勝てねえから仲間連れてきたのか? 別に俺は構わねえぞ」

「貴様は俺一人で殺す。彼女は部外者だ。さっさと始めるか」

「はは、いいぜえ。せいぜい楽しませてくれよ」

 日比野が口端を吊り上げて笑う。

 それに答えるように、久鎌井も笑った。


「久鎌井!」


 少女の叫び声を開始の合図にして、二人は駆け出した。


 久鎌井の右腕に黒い鎧が現れた。

 それは昨夜の黒騎士型アバターの腕だった。その指はすでに五本の鋭い鎌と化している。

 真正面から突撃する久鎌井に対し、日比野も植物の絡み合い丸太のようになった“ナルキッソス”の腕を顕現させ、鞭のように振るって応戦した。


 久鎌井は軽く横飛びにかわすと右腕を一閃。日比野の腕が宙に舞う。


 昨日は切断することができなかったが、今回はやすやすと両断した。


「はっはっはっはっ、いいぞ久鎌井」


 笑い声を上げる日比野は、四肢全てをアバターに変える。見た目は植物性の蛸の様でもあったが、その足の数は百を越えていそうだ。


 それら全ての先端を槍の様に鋭くして久鎌井に浴びせかけた。


 久鎌井はそれらの半分を避け、半分を切断しつつ日比野へと猛進した。


 ようやく日比野の本体に辿り着くも、日比野が横に大きく跳躍し、河川敷に降りた。


 それを久鎌井も追撃する。彼もまた、一跳びで移動した。

 しかし、その動きは、跳躍したというよりは、あたかも中空を滑っているかのようだった。


「“ヘルメスの靴”の力が顕現されているようだな」

 いつの間にか鏡谷が土手を上がり、綾香の隣に立っていた。


 ヘルメスの靴。

 神話の中でペルセウスがメデューサ退治に行く際に、ヘルメス神から授かった空飛ぶ靴だ。


 久鎌井の足をよく見てみると、戦いが始まる前はただの運動靴だったはずなのに、今は鳥の羽の模様が施された金属製の様なブーツに変わっている。

 彼は今、少しだけ宙に浮きながら、氷上を滑っているかのように移動しつつ、日比野と戦っていた。


 綾香の眼には二人の力は拮抗しているように見えた。


 久鎌井が、日比野の、矢の雨ように降り注ぐ“ナルキッソスの触手”をかいくぐり、ようやく本体に辿りついたと思えば、再び日比野は跳躍して距離をとる。そして、久鎌井はそれを追い……という戦いを繰り返している状態だった。


「……綾香くん。今の彼を見る限り、説得は失敗に終わったのか?」

 鏡谷が悔しそうに呟く。

「いや、まだよ。これからやらなきゃいけないことがある」

 そう、綾香にはやるべきことがあった。彼らの戦いに見とれている場合ではない。

「そうなのか?」

 鏡谷の言葉に、綾香は力強く頷いた。

「とにかく、一回こっちに注意を惹きつけなきゃ」

 綾香はポーチから球体を取り出し、矢にその形を変えた。

「一つ伝えておくことがある」

 綾香が矢を番えようとしたところで鏡谷が声を掛けた。

「久鎌井くんの耳元が見えるか?」

「え、はい」

 綾香が眼を凝らすと、確かに久鎌井の耳には何か白い飾りが付いているように見えた。

「あれが“エコー”だ。今は張り付いて引き剥がすことは難しいが、もしも離れたときには、問答無用で潰してくれ。ヤツを倒したからといって久鎌井くんの催眠が解けるわけじゃないが、ヤツがいる限り、同じことの繰り返しになる」

 揺るがない瞳で綾香を見つめる鏡谷。

「はい」

 彼女もまた自分と同じように、覚悟を持ってここにいることを感じ、綾香はしっかりと頷いた。

 そして、ちょうど日比野との距離を詰めようとしている久鎌井の足元を狙って矢を放ち、同時に土手を駆け下りた。



 — * — * — * —



 横から狙われている気配に気づき、久鎌井はその場を飛び退いた。

 少し遅れて、立っていた地面に矢が突き刺さった。

 久鎌井は、その矢の飛んできた方向に顔を向けた。

 そこには、花住綾香が立っていた。

 久鎌井は思わず彼女を睨みつけた。


「なんだあ? 仲間割れかあ?」

 戦いに水を差され、日比野も不機嫌そうにしながらその攻撃を止めた。

 綾香は、日比野に向けても矢を放った。日比野はそれをよけることもなくその身に受けたが、痛がるそぶりもなく、無数の触手のようになった植物の腕で、引っこ抜いた。


 確かに、アバターの力を帯びた綾香の矢は日比野には刺さったが、蚊に刺された程度のような反応だ。

「うぜえ」

「邪魔をするなと言ったはずだ!」

 久鎌井は綾香を恫喝するような大声を上げた。しかし、それでも彼女はその場から動こうとはせずに、涙で潤んだ目を久鎌井に向けていた。


「今の久鎌井は、久鎌井らしくない」


「黙っていろ。朝の問答を繰り返している暇はない」


「あんたが、人を殺すような人間じゃないことを、証明してあげる」


「……」

 久鎌井が綾香を無視して視線を日比野に向けようとしたそのとき、彼女は、ウエストポーチから何かを取り出した。


 ナイフだった。


 そして、刃を包んでいた布を外した。

「まったく、女のすることは分からんなあ。そんなちんけなもんで殺り合うつもりか?」

 日比野は心底つまらなさそうにそう呟いた。

 久鎌井にも、彼女の行動を理解することはできなかった。


『邪魔だな』

 久鎌井の頭の中にもう一人の自分の声か囁く。

(そうだ。確かに邪魔だ)

 久鎌井も、その声に同意する。しかし、何故か彼女から目を離さずにはいられなくなっていた。何か、嫌な感じがしていた。それが何なのかは分からなかったが。


「わたし、本気だからね」


 綾香はそう言うと、ナイフのグリップを両手で強く握った。


『無視してしまえ。早く日比野を殺すのだろう?』

 久鎌井の頭の中で声が響く。

 しかし、胸を過ぎる嫌な予感の方に、久鎌井の意識はからめ取られていた。


「あんたを信じてる……」


 そう呟く少女は、思いつめた様子でナイフを見つめている。


(何を、するつもりだ?)


『構うな!』

 久鎌井の頭の中で響く声が大きくなる。


 それでも、久鎌井は彼女から目を逸らすことが出来ないでいた。


 綾香の瞳が再び久鎌井に向けられた。


「でも、もしものことがあるから……最後に、一つだけ言っておくね……」


 切っ先が彼女自身に向けられた。


(まさか……何故、そんなことをする必要がある……)


 頭痛がして、久鎌井は頭を片手で抑えた。

 眩暈もする。気持ちが悪い。


『あいつがどうなろうが知ったことではないだろう。お前にはやるべきことがあるだろう? 守るべき家族がいるのだろう? 前に進まなければならないのだろう? そのためにまず日比野を殺し、復讐を果たすのだ! あの女がどうなろうが構わないだろうが!』


「だめだ……」

 しかし、久鎌井が、今の綾香を構わないでいられるわけがなかった。


「わたし……あなたのこと……」


 彼女がしようとしていることは、久鎌井は決して見過ごすことはできない。


 初めはただアバターのことについて知りたくて、久鎌井は彼女に声を掛けた。

 綾香にとってはそれが鬱陶しくて、邪魔なやつでしかなかった。

 しかし、久鎌井にとっては自分から積極的に関わろうとする、久しぶりの他人だった。

 そしてなぜか、綾香にとっては本当の自分を見せても離れて行かない他人になってしまった。


 そんな二人の関係性。


 今、綾香はナイフを自分の喉元につきつけながら、自分自身にできる最高の笑顔で、久鎌井に告げた。


「大好きになっちゃったみたい」


 そして、その腕に自らの喉を貫くための力が込められた。


「やめろおおおおおおおおおおお!」


 久鎌井は駆け出していた。


 全身全霊で飛び出し、その速度はもはや瞬間移動並みであった。


 そして、彼女の持つナイフを左手で強く握り締めた。


 切っ先は彼女の喉の皮膚に触れていた。傷はついていない。

 彼女は確かに、本気の力で自分の喉にナイフを突き立てようとした。

 しかし、それは久鎌井の手によって止められていた。


「……ほら、ほらあ……」

 消え入るような声とともに、綾香の顔が上げられる。


「わたしの言ったとおりじゃない……」

 少女の瞳から涙がぼろぼろと流れ落ちていた。

 そして、ナイフから手を離すと、久鎌井の左手にそっと頬を寄せた。

 久鎌井の左腕は、いつのまにか白い鎧に包まれていた。


「これが、久鎌井だよ」


「お、俺は……」

 頭痛がして、久鎌井の頭の中で声が響いた。


『憎いのだろう? 日比野を、殺してやりたいほど憎んでいるだろう? 右腕を見てみろ。ほら、禍々しく歪んだお前の心が表れているじゃないか!』


「そうだ、俺は……この手で……あいつを」

「違うよ。憎いのは当たり前。月野さんを守りたかったんだもんね、それが普通だよ」

 耳に届く少女の声が、久鎌井にとってはとても柔らかく、優しく響く。


「ならこの右腕は……禍々しい俺のこの右腕は何なんだ」

「大丈夫」

 綾香は、優しくそう言うと、そっと久鎌井の右腕に触れた。


「この黒い腕も、こっちの白い腕も、両方とも人を守るために振るわれるもの。でもさっきまでの久鎌井はおかしかった。誰かを守るために戦っていなかったもの」


「茶番だな」


「きゃ!」

 日比野の声に反応し、久鎌井は咄嗟に綾香を庇うように抱きかかえつつ振り返った。

 同時に、無意識に左手を掲げていた。

 そこに、白い大きな盾が現れた。


 “アイギスの盾”だ。


(そうだ。俺のこの力は、この姿は誰かを守りたいがために産まれたものだった)

「花住さんの言う通りだ」

「うん」

 そう呟くと、綾香は久鎌井の体に手を回し思い切り抱きついてきた。

 綾香から伝わってくる温もりが、久鎌井を優しく包み込む。


 心が温かい。


 久鎌井の心に生まれた日比野を憎む感情。それが決して消えたわけではない。しかし、今は彼女から伝わる温かさも、そして彼女を守りたい感情も、そこにあった。


「あ、あれ!」

 突然、綾香が何処かを見て声をあげた。

 久鎌井が彼女の視線を追うと、白い何かが日比野の方に飛んで行くのが見えた。


バンッ、バンッ


 鏡谷の銃声が響く。エコーを狙ったものだ。

「待て!」

 弾丸が命中することはなく、白い蛇の姿は虚空に消えていった。


「てめえらうぜぇ、二人とも死ねよ」

 日比野の声とともに久鎌井たちの足元の地面が盛り上がった。

「な!」

「きゃあ!」

 不意をつかれてバランスを崩し、二人の体が離れる。

 足元の盛り上がりからは太く、絡み合った植物が現れた。日比野の足は地面に埋まっている。

 “ナルキッソス”の足が地中を進んで、二人を足元から襲ったのだ。

「花住さん!」

「久鎌井!」

 “ナルキッソス”の足は無数に分かれ、伸び、編み込まれた籠のようなドーム状となって久鎌井を包み込んでいく。

「ちいっ!」

 久鎌井は体勢を立て直し、すぐに右腕を振るった。

 しかし、切ったそばから“ナルキッソス”の茎は、伸び続け、久鎌井が抜け出すことはできなかった。


「先に女から始末してやろう」


 視界が遮られる最中、日比野の声が聞こえた。

「くそおおおおお!」

 久鎌井が全力で何度も右腕を振るった。

(このままでは花住さんが危ない)

 あせる久鎌井。

(また俺は守りたい人を守れないのか!)

 だが、今この右手には刃がある、

 盾しかないあの時とは違う。

 アバターの力は思いの力。

 この刃の力もまた、久鎌井の、“ペルセウス”の根源たる思いともに振るわれれば、その力は計り知れないものとなる。


「守るんだ! 俺は、俺はぁぁぁぁ!」


 一閃!

 一際大きく切り裂かれた植物の隙間をぬって久鎌井が飛び出した。

 そのまま、“ヘルメスの靴”の力で、地面を滑るように移動し、日比野との距離を詰める。

 しかし、その前には綾香がいて、今にも“ナルキッソスの腕”が彼女に振り下ろされようとしていた。


 一瞬の出来事だった。


 久鎌井は両手を合わせ、左下段に構えた。


 自分のアバターとしての力を、久鎌井は十分に理解できていないはずだった。


 しかし、妙な確信が彼の中にはあった。


 迷いもなかった。


 久鎌井に剣の心得などなかったが、手に持った“何か”を、左下から右上へと切り上げた。


 すると、まさに綾香を肩から引き裂かんとする勢いで振り下ろされた“ナルキッソスの腕”が、彼女の体に触れることなく、いくつかの破片に引き裂かれた。


 日比野にも何が起こったのか理解できなかったが、久鎌井の手に握られているものに目を丸くした。


 それは、かぎ爪のような、熊手のような、不思議な得物であった。五本に分かれておりそれは今まで久鎌井の右手にあった黒いかぎ爪のように思われたのだが、しかしそれは手から生えておらず、根元には少し小振りにはなっていたが、久鎌井の左手にあった白い盾なものがあり、その先に持ち手があった。


 盾とかぎ爪が融合してできた熊手のような不格好な剣。


 それを久鎌井が手にしていた。

 色も白と黒が混ざり合い、マーブル模様のようでありながら、生き物のように明滅している。

 しかし、おかしなことはその見た目だけではなかった。その剣が振るわれたであろう太刀筋は、間違いなく綾香を通過していた。


 だが、彼女には傷一つついていない。


(どういうことだ!)

 日比野が驚いているまもなく、久鎌井の弐の太刀が上段から振り下ろされた。

 間違いなく、綾香を頭から切り裂く太刀筋でありながら、やはり彼女が傷つくことはなく、“ナルキッソス”が切り裂かれた。


「バカな!」

 日比野の叫びを聞きながら、久鎌井は今自分が振るっている力を理解した。


 これは、ペルセウスの盾と剣の力が合わさったものだ。


 斬るべきものを斬り、守るべきものを守る。


(つまり、守るべきものは斬らない)


 久鎌井はひるがえり、綾香とお互いの位置を入れ替わるようにしながら、この不思議な剣を横薙ぎに振り切った。

 完全に日比野の胴体をとらえていたが、それでも日比野自身の体が切り裂かれることはなく、“ナルキッソス”のアバターの力だけがはぎ取れるようにして飛び散っていく。

「がはっ!」

 痛みがあるのか、日比野は後ずさりするところを久鎌井は逃さず、さらに斬撃を加えると、日比野の体からは“ナルキッソス”の植物と化している部分がなくなり、彼は膝をついた。

「く、くそがぁぁ」

 立ち上がろうとするも、できずそのまま前のめりに倒れると、久鎌井を睨みつけながら、呻きながらも、それ以上動けなくなってしまった。


「勝負あったな」


 その傍に鏡谷が駆け寄ると、懐から鎮静剤が入っている注射器を取り出し、日比野に打った。もう、アバターの力が失われていた彼に、注射針は難なく刺さり、そのうちに日比野は気を失った。


 綾香も自分の体に何が起こっていたのか分からず呆然としていたが、ようやく状況を理解したのか、安心してその場に座り込んでしまった。


 久鎌井もその手から奇怪な剣を落とし、両手両膝を地面についた。

 そして、綾香と顔を見合わせた。


「やったね、久鎌井」

 綾香が口にした言葉は、今までさんざん言いたくてもいなかった言葉だった。


「……ああ、ありがとう」

 ありがとうは変な気がしたが、しかし綾香がいなければ、今の自分に戻ることはできなかった。だからこそ自然に出た言葉で、久鎌井は心底綾香に感謝をしていた。


「まったく、君には、本当に驚かされるよ」

 鏡谷も、いつものような静かな様子ではあるものの、目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。


 しばらくして、鏡谷が日比野を担ぎ上げようとするが、女性であり体格差もあり、ましてや意識がない人間というのは非常に重くどうにもならない様子であったため、久鎌井はアバターの力を使って手を貸し、車へと運んだ。

「いろいろと君には話さなければいけないことがあるのだが、わたしにはやらなければいけないことがある。細かいことは落ち着いてから綾香くんに聞いてくれ」

「わたしが!? なんで」

 久鎌井の後ろについてきていた綾香が文句を言った。

「今の彼は疲労困憊している。複雑な話はせめて明日にした方がいい。そうだろ?」

「は、はい」

 久鎌井には何のことやら分からなかったが、疲労のことについては鏡谷の言う通りであった。

「ただ、一つ、これだけは今君に伝えておかなければいけない」

 鏡谷は車に乗り込んで窓を開けると、久鎌井に告げた。


「月野雫はいま、海月病院にいる。組織の力で特別に用意してもらった病室で“パンドラ”に所属する医師が専属で見ているのだが、まだ生きている」


「「本当ですか!」」

 久鎌井と綾香の声が重なる。

「ああ、ただ、変な期待も抱かせたくなかったから伝えてはいなかったんだ。生死の境を彷徨っているといった方がよい状態だからね。しかし、わたしにはもう、今しか告げられるタイミングがないかもしれない」

「それはどういうことですか?」

「わたしにもこれからどうなるか分からんのだが、先ほど言ったが、細かいことは綾香くんに聞いてくれ。そして事情を汲んでくれると助かる。あと、月野雫の容態が今後どうなったとしても、君に連絡がいくようには手配しておく。今の君ならば、どんな結果も受け入れられるのではないかと期待する。じゃあ、これで失礼するよ」

 鏡谷は窓を閉めると、その場を去っていった。


 久鎌井は綾香を見た。

「あ、まあ、説明はするけど、明日にしようか。でもそれよりさ」

 綾香は照れた様子で、久鎌井に向き直った。

 先程は、鏡谷に久鎌井説明をするように言われたとき、文句を言ったが、本当は全く嫌ではなかった。いつもの癖でただ言っただけだ。

 ただ、そんなことよりも、今は彼に言いたい言葉があった。


「……お帰り、久鎌井」


 変な表現のようにも思ったが、綾香の正直な気持ちであった。久鎌井を呼び捨てにしていたが、今はそう呼ぶ方が、自然な気がした。


「あ、うん。ただいま」

 だから久鎌井も思わずそう答えていた。


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