第10章 ザ・ラストバトル ―①
五月二十一日 日曜日
久鎌井に、ようやく平穏が訪れていた。
結局、鏡谷たちの事情について、久鎌井はまだ聞いていなかった。
綾香とは、お互いに疲労困憊していたから、日曜はしっかり休んで、月曜の朝、一緒に登校しながら話をしようということになった。
しかし、久鎌井は、休むとは言っても、いつもの家事を当然の如くこなしていた。
洗濯、掃除、ご飯の準備、買い物等々。
それらは久鎌井にとっては苦でも何でもなかった。
(……いいな、やっぱり)
むしろ充実感が彼を癒していた。
久鎌井の母親も、何となく今まで息子の様子がおかしなことに気づいてはいたが、今朝は、息子が今まで以上に晴れやかな表情で、いつも通りのことをしている様子を見て、ほっと胸を撫で下ろしていた。
綾香にとっても、今日は今まで以上に気分のいい一日だった。
別にどこに出かけたわけでもなく、何か変わったことをしたわけでもない。
ただ、明日、久鎌井と登校できることが嬉しかった。
彼に対する好意を隠すつもりもない。
(言っちゃったもんな、大好きだって)
昨夜は綾香も久鎌井を助けようと必死だったわけだが、今思い返してみるとたまらなく恥ずかしい。
しかし、成り行きでとはいえ言ってしまった以上、もはや何も隠す必要はなくなったわけだ。
自分の心に素直に行動できる。そう思うと、心が晴れやかで、明日が楽しみで仕方がなかった。
だから、綾香は、今日はアバターになる必要はなかった。
いつも通りに早く寝て、明日になるのを待つだけだ。
— * — * — * —
鏡谷は車の中にいた。
河川敷、堤防の上。
初めて久鎌井と話をし、久鎌井と日比野の死闘が繰り広げられた場所だ。
後部座席では、日比野がまだ目を覚まさないでいた。
昨夜、久鎌井たちと別れた後、鏡谷はすぐに本部に連絡をした。
神秘隠匿組織“パンドラ”において、人々を守るために活動している部署“プロメテウス”のトップに、鏡谷英昭を中心として自分たちが何をしてきたかをすべて伝えた。
相手は信頼できる人物であり、これで鏡谷英昭は、組織に身を置くことはできなくなるだろう。ただ、奴を拘束したり、無力化することは非常に難しいことであることは予想される。
大捕り物になるのか、はたまた行方をくらましてしまうのか……
(しかし……)
鏡谷にはある確信があった。
――ブィィィィィィ、ブィィィィィ――
スマホのバイブ音。
画面には鏡谷英昭と表示。
鏡谷が顔を上げると、そこには鏡谷英昭本人が立っていた。
「そのうち来るだろうとは思っていたよ」
鏡谷は車外に出ると、英昭にそう声を掛けた。
深夜零時近い時間。薄雲のかかった月あかりが、血色の悪い白衣姿の男を不気味に照らし出している。
「まったく、お前は何がしたいんだ、望」
英昭は平静を装っているものの、頭には青筋が浮かび上がりそうなほど苛立っているように鏡谷には見えた。この男は所詮小物なのだ。小物が面倒臭く姑息な能力を身に着けて厄介な存在になっているのだと、鏡谷は自分の父親をそう評価していた。
(それでも、そんな父親を可哀想に感じていたからこそ、ここまで来てしまったのだがな)
鏡谷は自嘲的に笑った。
「何が、可笑しいんだ!」
激高しないように抑えようとしも抑えきれない語気で、英昭は声を上げた。
「おかしいのは自分自身だよ。まあ、結局わたしたちのことを許せずに顔を出すだろうとは思っていたから、あんたが思った通りに姿を見せたことは少し笑えたかな」
陰湿でしつこい奴のことだ、自分たちのことを放っておくはずはない。本部の追手から逃げるにしても、どこかでこちらに何かしら仕掛けてくるはずだと、鏡谷は思っていたのだ。
「もう、終わりにしよう。何もかも」
鏡谷は銃を構えた。
もっと前からこうすればよかった。そうすれば、久鎌井らを苦しめることはなかったのだから。
「は、それでどうにかなると思っているのか。自分のかけがえのない父親を、実の娘が撃てるわけないだろ?」
「何を世迷い言を。もうあなたには何の情も持ち合わせていない」
鏡谷は引き金を引こうとしたが、引けなかった。
「なっ!」
「わたしが撃てないと言ったら、撃てないさ。ましてや、情が全くないわけでもないんだったらなおさらさ」
そう言って笑う英昭の舌は、蛇の如く二股に分かれていた。
「くっ、すでに同調状態か……」
鏡谷はそれでも撃てると思っていた。相手の力を甘く見ていたということか。
「わたしとて、それなりにこの力を使い、また使いこなしてきたのだ。さて、おお、ちょうどいいところで目が覚めたね」
英昭の言葉に鏡谷が振り向くと、そこには日比野が立っていた。
「目を覚ましたのか勇!」
「……最悪な目覚めだがな」
「おお、勇。良く目覚めた。さあ、もう一度奴に復讐をしようじゃないか。おっと、望はそこから動くなよ」
その一言で、鏡谷は身動きが取れなくなっていた。
(こ、ここまでの力を持っていたのか、この男は)
相手の言うことに従わざるを得なくなってしまうのであれば、一対一ではまず勝ち目がない。
(やはり、甘く見ていたのか)
「逃げろ、勇」
「いやいや、勇よ。君とわたしの目的は同じだろ? 久鎌井の奴に復讐したい。そうだろ? わたしは君が強くなることを望んでいる。奴の力を吸い取って、より強大なアバターの力を得ようではないか! お前さえいれば、組織などもうどうでもよいわ!!」
英昭は先ほどまでの表情とは打って変わって、上機嫌に日比野に語り掛けた。
一方日比野は、面倒臭そうな表情をしていたが、久鎌井の名前が出たところでピクリと反応し、そのまま英昭を見つめていた。
「強くなりたいのだろ? 久鎌井の奴に勝ちたいのだろう?」
「ああ」
「聞くな! 答えるな!! 勇!!」
英昭の言葉は“エコー”の魔力を帯びている。それは勇の心の中にある思いを強く増幅させるものだ。
「うるさい! 黙れ!」
英昭の一言で、鏡谷はしゃべることすらできなくなってしまった。どうやら同調状態の能力には、一度催眠状態にした相手に対し、命令を強制する力もあるようだ。
確かに、鏡谷の中には父親を銃で撃つことに対する躊躇があり、それが“エコー”の力で増幅され、引き金を引くことが出来なくなっていた。ただ、先のように『動くな』や『黙れ』の一言で動けなくなったりしゃべれなくなったりするのは、自分の中にある思いに関係なく、一度“エコー”の術中にはまったことで催眠状態に陥り、奴がアバターの力を乗せた言葉には逆らえなくなっているからだ。
自身の父親のことでありながら、鏡谷は“エコー”にそんな能力があることを知らなかった。
(勇! 逃げろ、逃げてくれ)
もはや祈ることしかできなくなっていた。
「さあ、久鎌井のところに行こう、そして、奴の力をわがものとするのだ! ははは」
「言われなくてもそうするさ。だから」
自らの力に陶酔し、天を仰ぎ高笑していた英昭の腹を、“ナルキッソス”の腕が貫いた。
「まずは、あんたの力をくれよ」
「……な、かっ」
英昭は驚きに目を丸くしていたが、「なぜ」の一言を言う間もなく、“ナルキッソス”の無数の蔦が巻き付き、繭のようになってしまった。
なぜ、“エコー”の力が及ばなかったのか、日比野自身は全く認識していなかった。“エコー”は正常な精神を持った人間の心を乱し、操ることはできるが、すでに狂気に陥いっている精神を操ることはできなかった。
日比野は、英昭の姿を見た時からこうするつもりだったし、もちろん、久鎌井にも復讐するつもりだった。
「勇、お前」
話すことも動くこともできるようになった鏡谷が日比野に声を掛けるが、日比野は彼女と視線を合わすことなく答えた。
「もう、これですべて終わりにする」
枝分かれした“ナルキッソス”の腕が、鏡谷の首に絡まると、血流を遮断し、意識を失わせた。
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