第10章 ザ・ラストバトル ー②

五月二十二日  月曜日



 久鎌井が母親と妹を送り出して家を出ると、そこには花住綾香が立っていた。


「久鎌井、おはよう」


 今までの完全無欠のお嬢様ではない、綾香本来の声だ。

 綾香自身も、自室以外で、自分が自然体でいる事実に驚きと新鮮さを感じていた。

 その言葉も、久鎌井に向けられる笑顔も、無理にひねり出したものではない。


「お、おはよう、花住さん」


 対して久鎌井は、照れを感じずにはいられなかった。

 衣もそうだが、綾香も間違いなく天ケ原高校屈指の美人であることは間違いない。そんな彼女が自分に好意を持ってくれていることも理解している。身に余る思いというやつだし、どんな態度を取ればよいのか、いまいち分からなくなってしまっていた。


「花住さん、か。まあいいや」

「な、なに?」

 下の名前で呼んでもらいたいと思う綾香と、そんな空気を感じつつも、さすがに呼べないよ、と思っている久鎌井。

「そ、それでさ、鏡谷さんたちの事情を聞かせてよ」

「うーん、そうだね。その話をしないとね」


(ま、急がなくてもいいよね、二人の関係はこれからだし、わたしは告白しちゃったけど、別に彼女になったわけでもないもんね)

 そう自分に納得させると、綾香は久鎌井に鏡谷から聞いた内容を、話し始めた。


 鏡谷と日比野の本当の目的。

 “エコー”というアバターの存在。

 その所持者である鏡谷英昭が鏡谷望の実の父であること。


「“パンドラ”の中にもいろいろ組織があるんだね」

 歩きながら話をする二人。久鎌井もようやく落ち着き、自分の思ったことを口にした。

「そうね。研究機関“ヘルメス”だとか、アバターの事件を処理する特務機関“ネメシス”。所持者に特別な医療を施す組織は“アスクレピオス”で、鏡谷さんの前にわたしに声を掛けてきた人は“プロメテウス”の人間だって言ってた気がする」

「ふうん、そうか」

 久鎌井は適度に相槌を打ち、適度に聞き返してきた。


(久鎌井は、すごく話しやすい人なんだな)


 綾香は真面目な話をしながら、そんな感想を抱いていた。彼は家族の世話もしている。学校では友人が少なく、あまり話をしているところを見ないからといって、引きこもりやコミュ障というわけではない。むしろ世話焼き上手の聞き上手だ。

(こうやって、久鎌井のことをもっと知っていきたいな)

 綾香はそう思った。


「でも、日比野はいったいどういった経緯で“パンドラ”に入ったんだろうね?」

「そう言えば、それは聞いていない気がする」

「何にしろ、昨日の急いでいた鏡谷さんの感じだと、何か決着をつけるような雰囲気だったけど……」

「わたしにも、もし日比野と久鎌井の戦いの最中に“エコー”見つけたら、潰してくれとまで言ってたし、自分でもそうするつもりだって言っていた」

「「………」」

 鏡谷たちの行く末を案じ、二人して黙ってしまった。

「と、もう学校に着いたみたいだけど」

 久鎌井は何となく立ち止まった。


 このまま、教室まで一緒に行っていいの?


 そんな意図をもって綾香に目配せをした。

「何をいまさら、行くわよ」

 綾香は肩で久鎌井の腕をこついて、彼に先に進むことを促した。

「まあ、いいならいいけど」

 周囲はやはり、二人を不思議そうに見たり、驚いたりしている。いつも綾香に挨拶をしてくる友人も、何となく戸惑った様子で声を掛けてくる。

 しかし、綾香は気にした様子もなく、むしろいつものお嬢様然とした対応をしながらも、いつも以上に魅力的な笑顔で挨拶を返していた。


 これからも、こんな楽しい登校が出来るのかと思うと、綾香は幸せでたまらなかった。


 一方久鎌井は、そんな綾香を魅力的に感じてはいたが、いまは照れと戸惑いの方が大きかった。それに、脳裏には沢渡衣の顔が浮かんでいた。


(今の俺、クズかも……でも、どうしたらいいか分からん)


 色恋など無縁だった今までとは違い、非常に魅力的な女性が二人も自分の近くにいること。それを意識してしまうと――

(いや、そんなことよりも勉強しなきゃ、そう勉強)

 頭と心が不安でパンクしないように逃避する自分が湧き出てくる。


 しかし、綾香の幸福も、久鎌井の不安も、すべてを吹き飛ばす嵐が、すぐそこに迫っていた。



 — * — * — * —



 それは、二時間目がもうすぐ始まろうとする頃だった。

 久鎌井は、昼食は衣と弓道場で食べるのを最近の常としていたが、それは綾香に止められるのだろうかなどと心配してソワソワする心を叱咤し、気合を入れるために頬を叩いていた。

 ガラガラと教室の扉が開き、二時間目の授業の教員が入ってきた。にわかに教室が静まったその時――


「あれ、誰だ?」


 一人の生徒が窓の外を見て呟いた。

 その呟きに教員も気づき、そのまま教壇を横切って、窓の外を確認した。

 他の生徒の視線も移る。席を立って窓際に移動する生徒もいた。

「おい、席に着いていなさい」

 教員はそれを制止するが、生徒たちは言うことを聞かない。

 久鎌井もハッと顔を上げ、そして斜め前方にいる綾香とも目を合わせた。


 アバターの反応だ。


 久鎌井が飛び出す勢いで窓に近づくと、件の人物に視線をやった。


 校門から、一人の男が入ってきている


 白髪がまだらに混じりあった髪、遠くからでもわかる剣呑な雰囲気、間違いなく日比野勇だ。


(何をしに来たんだ?)

 久鎌井と綾香がアバターの反応を感知した以上、奴はアバターの力を顕現させている。しかも隠すつもりもないし、土曜日に戦った時よりもより強大な力を感じた。

 良く見ると、校門付近の樹木が枯れていた。

(あいつ、やばいぞ)

 他者の力を吸収する能力を解放させながら、日比野は歩いていた。

「おい、そこの君」

 職員室にいた数人の教員が日比野に近づいていった。

「近づいたらダメだ!」

 久鎌井は周囲の目も憚らずに叫んでいた。しかし、すでに遅かった。

 日比野が、近づいてきた教員の腕を掴むと、その体が一瞬痙攣し、そして、地面に倒れた。

「お前、何をした!」

 それを目の当たりにした他の教員が、恐怖を顔に滲ませながらも、勇気を奮わせて叫んだ。


 しかし、日比野は気にした様子もなく、顔を上げた。

 その視線が、久鎌井の視線と交錯した。

 喜びに目が見開かれ、唇が動く。

 声は聞こえなかった。しかし、久鎌井には彼がなんと言ったか分かった。


――お前を、殺す。


(やばい!)

 久鎌井は駆け出した。

「おい」

 教員の制止の声も聞かずに教室を飛び出た。

 今のヤツは危険すぎる。

(ヤツを校舎内に入れたらダメだ。俺を殺しに来たというのなら、俺が早く外に出ないと)

 しかし、久鎌井が階段を下りようとしたとき、すでに遅いことを知った。


 蔓や、蔦、そして茎など植物が、校舎の壁や天井、廊下を、這うようにして四方八方に広がっていく。その速度はまさに瞬く間。気が付いた瞬間には周囲は“ナルキッソス”の触手ともいえる植物が張り巡らされた環境になっていた。


 久鎌井が驚愕していると、近くの蔦から突然芽が出て花が咲いた。

「“ペルセウス”見つけたぞ」

 花が言葉を発した。その声は間違いなく日比野のものだ。


「お前、俺が目的なんだろ? だったら、外に行くから待っていろ。相手をしてやる」

 久鎌井にとって、日比野はもはや敵でしかなかった。自然と『僕』などという甘い言葉は出てこない。

「……くっくっくっ、嫌だね。お前と戦うには、こんな人が多いところがいいに違いないんだよ」

 不意に、横にあった別の蔦から棘が伸びてきた。

「くっ」

 久鎌井は咄嗟に避けたが、右肩からは血が流れ出た。

「どうした? 早く力を使えよ」

 久鎌井は、ふと周りを見た。教室からは教員や生徒が周囲の環境の変化に戸惑いながら、何事かと外に出てきていた。

「おお、食料が出てきたなあ」

「やめろ! 他の人は関係ないだろ!」

「はっはっはっ、いい顔してくれる。……嫌だね」

 壁に張り巡らされた植物が、さらに空間を覆っていく。

「やめろ!」

 久鎌井は駆け出した。一番近くにいた男子生徒の前まで駆け寄り、振り返ると同時に、“ペルセウス”の力を発揮した。


バシィン!


 男子生徒めがけて跳び出してきた棘を、久鎌井の盾が防いだ。

「はっはっはっ、いいぞ!」

「みんな! 逃げてくれ」

 久鎌井は力の限り叫んだ。

 彼が庇った生徒も、その背後で尻餅をついた姿勢のまま、久鎌井の不思議な盾を携えた姿を驚きの表情で見つめていた。

「いいから、早く逃げるんだ!」

「は、はい!」

 ようやく正気に戻って、生徒がその場から這うようにして逃げていく。しかし、その足をどこからか跳び出してきた棘が貫いた。

「あ」

 男子生徒は、痛みによろけて倒れた。

「あ、ああ、ああああ!」

 ふくらはぎから流れ出る血と痛みに、その男子生徒は冷静ではいられなかった。

 そこ声は、臨界に達していた周囲をパニックへと引きずり込んだ。


「びびのぉぉぉぉーーー!」


 久鎌井は力の限りに叫んだ。

 そして、一般人の前で、自分の姿のまま能力を使った。

 これで、彼の日常は壊れることになるだろう。

 しかし、もはや彼に躊躇はなかった。


「ほら、早く来ないと、怪我人が増えるぞ」

 その一言を告げた花を、今度は右手に顕現させた黒いかぎ爪で引き裂くと同時に、久鎌井は走り出した。

(日比野の気配は、下から感じる。位置からすると、恐らく昇降口だ)


 階段を駆け下りる。


 その途中も、上下左右から棘が久鎌井を襲ってきた。

 左側は“アイギスの盾”で防ぎつつ、右側はかぎ爪のような“ハルペー”で切り裂いた。多少隙間をぬって久鎌井の体に届く棘もあったが、アバターの力を顕現させているせいだろう。彼の肉体には夢遊状態のアバター以上の頑強さが備わっており、多少の痛みはあっても、皮膚が傷ついて血が流れることはなかった。

 足も、普段よりも速くなっているし、階段を飛び降りた時にはその足に“ヘルメスの靴”が備わっていた。そのまま勢いを増し、盾を構えたまま滑るようにして昇降口にたどり着いた。


 出入り口に大の字に立っている日比野。

 その手足はアバターに変わり、周囲の壁、床、天井を蜘蛛の巣のように覆っている植物と繋がっている。


「日比野!」

 久鎌井は勢いを緩めずに、滑るように突進した。


 突然四方八方か蔦や蔓が伸び、久鎌井の進行を妨害する。しかし、そんなものは久鎌井の“ハルペー”の前には紙に等しく簡単に切り裂かれていく。


「くがまいぃぃぃーーー!」


 血走った表情の日比野は奇声を挙げながら、アバターの力を最大限に発揮した。

 周囲を囲んでいた植物たちが絡み合い、盛り上がり、もはや大木と呼べるような太さになりながらあらゆる方向から久鎌井を覆いつくし、圧死させようと迫った。

 次の瞬間。


「なっ」


 日比野の体が、校舎を覆いつくしていた“ナルキッソス”の触手から切り離され、吹き飛ばされていた。


 切り裂かれていた。

 圧倒的な質量で、ありったけのアバターの力を込めたはずの攻撃が、久鎌井の構えた奇妙な熊手のような剣に、切り裂かれるのを、日比野は自ら目撃した。

 そして、切り開かれた道を滑るように体当たりしてきた久鎌井に、日比野の体は大きく吹き飛ばされ、そのまま校庭の地面にたたきつけられた。


「もう終わりだ。お前じゃ、俺には勝てない」

 “ヘルメスの靴”の力で吹き飛ぶ日比野を追いかけるようにやってきた久鎌井は、仰向けに倒れている日比野にそのまま馬乗りになり、のど元に熊手剣の切っ先を突き付けて言った。

(これほどまでなのか……)

 これほどまでに、自分と目の前の少年との間には実力差がついてしまったのだろうか。

 しかし、目の前の事実に、日比野は呆然とするよりも、憎しみの感情が沸き上がってきて、久鎌井の顔を睨みつけた。


「だったら、その剣で俺を切り裂けよ」


 “アイギスの盾”と“ハルペー”が合わさった不思議な熊手剣。それは久鎌井が切るべきと思ったものを切り裂き、守るべきと思ったものは切り裂かない。


 日比野の“ナルキッソス”部分は切り裂かれているが、彼の体が切り裂かれてはいない。


「………」

 久鎌井は、日比野の言葉に黙ってしまった。

「お前は、俺を殺す気はないのだろう?」


 気に入らなかった。


 久鎌井は、本気で日比野を殺す気はない。


 それが日比野には気に入らなかった。


 久鎌井は、今こうして剣を日比野に突き付けて睨みつけていながら、その気持ちは日比野に向いてはいない。飽くまで、自分が守るべき生徒たちに向いている。


 俺を見ろ!


 それが、日比野の、“ナルキッソス”の思いであった。他の力を吸いより強大になる力は、その手段に過ぎなかった。



 ギリシア神話のナルキッソスの物語は、いわゆるナルシストの語源である。

 自分のことが好きな自己陶酔者のことを指す言葉だろう。

 物語のナルキッソスは確かにそのような人物である。

 若さと美しさを兼ね備え、女性だけではなく男性にも愛されていた美少年であった。


 ある時、森の妖精(ニンフ)の一人エコーが彼に恋をしていたが、彼女は得意の歌とおしゃべりをゼウスに利用され、妻ヘラのから逃れ浮気をする間の時間稼ぎをさせられたことでヘラの怒りをかい、自分では話せず、相手の話した言葉の最後の数語しか繰り返せない存在となってしまったため、ナルキッソスを振り向かせることが出来ず、彼女は悲しみのあまりに声だけの存在となってしまった。


 ナルキッソスは誰もが見惚れる存在であるが、どんな美人に声を掛けられようとも

見向きもせず、思い上がる一方であり、そんな彼の被害者はエコーだけではなかった。彼から残酷な扱いを受けた少女の内の一人が、報われない恋がどれだけつらいか思い知らせてほしいと神々に願い、傲慢なものを破滅させる神ネメシスにその祈りが届いた。


 ある日、ナルキッソスは澄んだ池の水を飲もう顔を近づけると、池の中に美しい少年がいることに気が付いた。それは水面に映るナルキッソス自身であるのだが、彼は一目で恋に落ちてしまった。しかしそれは水面に映る影、どうしようと触れられず、自分がずぶぬ濡れになるのみ。どうすることもできず、しかしそこから離れることもできず、少年はやせ細って死んでしまった。その後、そこにはスイセンの花が咲いていたという。



 どう頑張っても報われぬ恋。

 日比野の思い、彼に集う思いは、恋だけでないし、自分自身に向けられた愛だけではないが、報われぬがゆえに、もっと自分の見て欲しい、もっと自分を愛して欲しいという渇望だった。


 日比野のその思いは、もとは自身の父親に向けられたものだった。

 父親は刑事をしていて、家になかなか帰ってこなかった。

 母は病弱で、日比野を産んですぐに亡くなってしまった。

 結果、祖父母に育てられた。

 祖父母が愛情を注がなかったわけではなかった。

 ただ、父親に少しでも相手をして欲しいという子供の切なる思いが、彼の心にスイセンの花を咲かせてしまった。


 夜中に突然現れる、スイセンにしては大きな花。

 「ねえ」と声を掛けてくるだけだが、その怪花の噂は広まり、警察も見回りや捜査をするようになった。

 夢の中のことと勇少年も思いながら、このままいたずらをしていたら、そのうちに父親が会いに来てくれるかもしれない。

 そんな思いから、だんだんと行為がエスカレートしていくこととなり……


 ああ、気が付けば人を傷つけていた。


 気が付けば……父親を殺していた。


(ああ、憎い、こいつが憎い)

 どんなに力を見せつけようと、どれだけ傷つけようとしても、この目の前の男の目は、意識は、自分を見ていない。


 殺そうともしない。


「ふざけるなああああああ!!!!」

 叶わぬ思い、報われぬ思い、歪んだ思いは、歪んでいるがゆえに大きく膨れ上がる。

 歪んでいるがゆえに、自分自身の思い込みでどこまでもいびつに肥大化していく。

「くっ!」

 日比野に馬乗りになっていた久鎌井は吹き飛ばされた。

 すぐに体を回転させて地面に手をつき、相手の状態を確認した。

「な、なんだこれは……」


 そこには、巨木とも言うべき、校舎を超える高さのスイセンの花が咲いていた。


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