第10章 ザ・ラストバトル ー③
海月病院の五階。
南側の角にある個室。
そこは暴走後、月野雫が運び込まれた病室だった。
“パンドラ”の組織によって急遽用意された病室であり、組織に所属する医師、看護師が担当している。
いまの彼女は以前のように意識はなく、またいつ目覚めるとも知れないまま、心電図のモニターと点滴がつながっている。
そこに、父親の姿はなかった。
組織からアバターについて、“アラクネ”について、また一連の事件についてと、多くのことを知らされ、もちろん多くの時間はこの病室で過ごしているのだが、今は少し休息のために、自宅に戻っていた。
代わりというわけではないが、そこに鏡谷望の姿があった。
彼女は、日比野によって気絶させられた後、彼が電話で呼びつけた組織の人間によって保護された。目が覚めてしまえば特に異常はないため、すぐに退院できる状態ではあったが、たまたま月野雫の父親が不在にしているとの情報を聞いて、この病室にやってきた。
「………」
鏡谷は、雫を眺めていた。
その目の端からは、涙が伝っていた。
「……どうしたらよいのだろうな」
雫に聞こえているかどうかは分からなかったが、彼女に聞こえているかどうかは、鏡谷にはどうでもよかった。
鏡谷にとって、ここはいま懺悔室のようなものだった。
自分の悔いている思いを吐き出さねば、何をどうすればよいか分からなくなっていたのだ。
鏡谷には当然のこととして、母親がいる。
しかし、今はどこで何をしているのか分からない。
もともと、“パンドラ”の研究員の一人ではあったが、自由奔放な性格で、結婚生活にも子育てにも向いていなかった。
鏡谷英昭は気弱な男であったが、健気に思いを伝え、晴れて夫婦となり、望をもうけたのだが、望の母親は研究所に子供を連れ、仕事を続けていた。それ自体は悪いことではないが、いかんせん放任主義で、もちろん英昭も世話をしつつ仕事をしていたが、研究所の職員も代わる代わる関わっていた。
それも、無機質になりがちな研究所の
望が三歳になった頃、母親は姿を消した。
もはや研究室が家のようになっていた望は、そのまま様々な人に助けられながら、成長していた。
ただ、英昭は自分の妻が姿を消したことで憔悴し、逃げるようにさらに仕事に打ち込むようになった。
「母親も困った人だと思うし、父親も情けのない奴だと思うよ」
しかし、あのとき、父親である英昭が母親の置手紙を見た後、自分を抱きしめて、すまなかったと言ったこと、望はそれを忘れることが出来なかった。
当時、英昭が“エコー”の所持者となっていたかどうかは、望には分からなかったが、その言葉は呪いのように彼女の中に残り、だからこそ今まで父親を見捨てることが出来なかった。
母親がおらずとも、衣食住にも、お金にも困ることはなく、望は成長した。
そして中学二年生の頃に、英昭は日比野勇を連れてきた。アバターの能力を発現させてしまったがゆえに保護された少年だ。そして英昭は望にその少年の世話を任せた。
普段、父親よりも他の研究員との方が話をする機会が多い望は、どこか大人びた落ち着いた態度の少女になっていた。英昭自身、娘とどのように接したらよいのか分からなかったから、あまり話をしてこなかったのかもしれない。だからこそ、勇のことに関して父親にお願い事をされたことは、当時の望には嬉しかったのだ。
寡黙で陰鬱な空気を纏う勇を、望は実の弟のようにかわいがっていたのだ。
「だけど……もう、よく分からなくなってしまった」
英昭のアバター、“エコー”の力は、人の心を惑わし、扇動する。
今まで望自身が感じていた感情が、すべて自分の本心だったのかどうか、自信がなくなってしまった。
「君に話しても、どうしようもないことなのにな」
鏡谷が身を震わせて、無言で、涙を流した。
「……一緒だね」
不意に声がして、鏡谷が顔を上げると、月野雫がこちらを見ていた。
「きみ……意識が」
鏡谷はやおら立ち上がり、ナースコールを押そうと手を伸ばした。
雫が目を覚ましたことは、奇跡に値する。自分が独白していたことも忘れた鏡谷の行動であったが、雫は彼女の腕をつかみ、それを制止した。
「ちがう。いますることは、それじゃない」
無表情で、抑揚のない話し方。それは命を落とす寸前までいったことによる後遺症なのかもしれない。
「早く医師を呼ばないと……」
鏡谷が雫の腕を払おうとしたその時、彼女が窓の外を見つめていることに気が付いた。鏡谷はすぐには気づかなかったが、それは、久鎌井たちの通う高校がある方向だった。
「……くるよ」
「何が……」
そのちょうど三秒後、遠くに土煙が上がったかと思うと、大木にしか見えない花のようなものが現れた。隣にある学校の校舎を優に超えていた。
「あれは!」
日比野であることは、所持者ではない鏡谷にもすぐに分かった。“ナルキッソス”の力が暴走しているのかもしれない。そして、日比野の攻撃対象は間違いなく久鎌井友多だ。
「どうするの?」
身動きせずに固まっている鏡谷をよそに、雫はゆっくりと体を起こした。
「迷っている暇はないよ。あなたはどうしたいの?」
まっすぐに見つめてくる瞳に、鏡谷は心の奥を覗かれている気分になった。
自分がしたいこと。
「……助けたい」
そうだ。自分だって、誰かを助けたかった。
母親を、父親を、勇を。
そんな思いを胸に抱いて生きてきたらこそ、今ここに辿り着いた。それはもしかしたら“エコー”の影響を受けていたのかもしれない。それでも今抱いている思いは嘘ではなかった。“エコー”は、自分の心の声を繰り返すだけだから。
いま、助けたいのは……久鎌井だ。
二人は頷きあった。
雫は、窓を開けると、アバターの力を解き張った。
彼女の髪が勢いよく伸び、絡まりあうと、大型犬二匹分くらいの大きさの蜘蛛になった。
「………」
少女から無言で差し伸べられた手。
鏡谷は迷いなくその手をとった。
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