第7章 ボルテックス・オブ・ディストーション ー②
昼休み、衣は弓道場で久鎌井を待っていた。
昨日は姿を見せなかったため教室まで探しに行った。今日はいっそ自分から出迎えに行こうかとも思ったが、それはそれで要らぬ騒動を起こすことは想像に難くなく、衣は自重した。
ほどなくして久鎌井が道場に姿を現した。
「久鎌井くん」
衣は思わず、歓喜の声色で出迎えた。
「ああ、昨日はすいません。昨日は教室まで来てくれたみたいで」
「いいのよ。それより、体大丈夫なの? 一昨日あんな調子だったから心配で……」
「はい、大丈夫です」
心配そうに尋ねてくる衣に、久鎌井は笑顔で返すといつもの定位置に座り、弁当を広げ始めた。
衣は、久鎌井の様子が、一昨日とは打って変わって晴れやかな表情であることホッとして、彼に続いて弁当を広げた。
久鎌井も、衣に心配かけたことは重々承知していたので、報告するつもりで今までの経緯を話し始めた。
月野雫という少女のこと、自身の中学時代の苦い思い出と後悔のこと。
その少女が、黒い蜘蛛の正体であったこと。
そして、その少女を説得し、救い出すことが出来たことを。
「一昨日の話は、その女の子のことだったんだ」
「中学でのことは、最近まで思い出さないようにしていたことですけど、この出来事は僕の心の中でずっとくすぶっていたみたいです」
「でも、やるじゃない! 久鎌井くん! 助けることが出来たんだね」
衣は自分のことのように喜んだ。
「先輩のおかげでもあるんですよ」
「え?」
久鎌井の言葉に、衣が目を丸くした。
「『誰か助けてくれる人がいるはず、そうじゃなかったらかわいそう過ぎるよ』って、あの言葉」
「ああ、そういえば、言ったわね」
「あの子は今まで助けてもらえなかった。昔の僕も手を差し伸べ続けることができなかった。だから、今度こそは助けてあげたいと思ったんです。同じような力を持った僕なら、過去の彼女を知っている僕なら……いや、今の状況で彼女に手を差し伸べられるのは、きっと僕しかいないんだって、思ったんです。本当に、先輩の言葉で勇気が出ました」
「な、なんか……照れるわね」
「本当に、先輩のおかげです」
久鎌井は、先輩に向けて大きく一礼する。
「そんなことはないよ……そんなことよりさ」
「はい?」
衣は、何処か意地悪そうな笑みが浮かべ、久鎌井に尋ねた。
「その子さ、可愛いの?」
「ど、どういう意味ですか」
「どういう意味も何も、そんなに嬉しそうに話してさあ」
衣はニヤニヤと笑顔を浮かべ、肘で久鎌井を小突きながら追及を続けた。
「いや、そりゃあ嬉しいですよ。その子をようやく自分の手で助けて上げられたんですから……」
「あれ~? 照れてる? それが答えかしら?」
衣は久鎌井を下から覗き込むようにして問い詰めた。
「え、いや、ほら、中学のこともあるし、だから、助けることが出来て嬉しくないわけがないでしょ?」
「その頃から……好きだったとか?」
そこまで聞かれると、久鎌井は照れているというよりは困った表情を浮かべていた。
「だから、そんなんじゃないですって」
「えー、ほんとお?」
「もう、先輩、時間ですよ時間! そんなことばっかり言っているなら、僕はもう行きますよ」
「ごめんごめん、冗談だよ。とにかく、久鎌井くん!」
出て行こうとする久鎌井を、衣は呼び止めた
「何ですか」
少し苛立ち気味に久鎌井は振り返った。
「おめでとう。やったわね、久鎌井くん」
さっきまでのからかいモードはすっかり消え、衣は心からの笑顔を見せていた。
「……ありがとうございます」
その表情に久鎌井も落ち着き、改めて衣に頭を下げた。
――キーンコーンカーンコーン――
「あ、もう行かないと」
「そうだね。わたしは少し片づけてから行くから」
「じゃあ、先輩、失礼します」
道場を出て行った久鎌井を、衣はボーっと見送った。
予鈴の余韻が静寂を支配する中、衣は直ぐに動き出すことができずにその場に立ち竦んでいた。
「最低だな。わたし」
月野雫という少女に関して、好きだどうだとうことでからかうのは、久鎌井の話にあった中学時代のからかいと何ら変わらなかった。
なんでそんなことを言ってしまったのだろうか。
いや、そんなこと、衣には分かりきっていた。
(悔しかったんだもん)
衣は、久鎌井のことを好きになっていた。
最初はただの興味本位で話を聞いていたのは間違いないのだが、いろいろと話を聞いているうちに、彼の人間性に惹かれていく自分がいた。
彼の、年下なのにしっかり者なところが好きだった。
家族思いの優しいところが好きだった。
正義感のあるところも……
(でも、わたしは蚊帳の外だ)
自分は、アバターの所持者ではない。
いつまでも、話を聞く側でしかない。
衣は自分と彼との間に、勝手に距離を感じてしまっていた。
いま、彼の眼は自分をとらえていないような気がしてしまった、
話を聞きたいのに、聞いているのが辛くなってしまう。
「悔しいな」
いま、無人無音の弓道場にいるのは自分一人。まさに取り残されたような感覚が、彼女の胸を締め付けていた。
— * — * — * —
授業後の屋上。
そこに、花住綾香の姿があった。
彼女は腕組みをして仁王立ちして、久鎌井を待っていた。
決闘の相手でも待っているような格好であるが、彼女はもはやどんな姿勢で待てばいいかも分からなくなっていた。
ほどなくして、久鎌井が姿を現した。
「お、遅いわよ!」
「えっ、あ、すまない」
綾香の声に、久鎌井は少し驚いた表情を浮かべ、反射的に謝っていた。
(わたしは何を言っているの!?)
授業が終わって、居ても立ってもいられないままに急いでここに来たというのに、開口一番がこれなのか。
「で、何よ?」
態度を修正することもできず、綾香は不機嫌そうに久鎌井に尋ねた。
「ああ、その……とりあえず、ありがとう」
久鎌井からしてみれば、綾香がそのような態度をとること想定内であったため、それほど動じることなかった。彼は、彼女に伝えたかった言葉を素直に口にした。
「え?」
「月野さんを、救うことができた」
「そうなんだ、まあ、おめでとうと言っておくわ」
(ああ、もう! 言いたい事は間違っていないけど、そんな恩着せがましく言うことじゃないでしょう!)
綾香はもう自分で自分の言葉を正しく制御できなくなっていた。
『正直になっちゃいなさい』
母の言う通りだ。もっと素直に、正直に言葉を紡ぐ事ができれば楽だろうに。恥ずかしいのか何なのか、なぜ自分の思っていることが口にできないのか、綾香にも分からなかった。
「彼女はまだ病院だけど、ようやく眼を覚ましてくれた」
本当にうれしそうな表情を浮かべ、久鎌井は言った。
それはそうだろう。彼はそれを望み、そして果たしたのだから。
しかし、嬉しそうに月野雫のことを話す彼を見ると、綾香の頭の中には余計にイライラが募る。
「それだけ?」
綾香は不満そうな顔で聞き返すだけだった。
その態度に、久鎌井の表情も曇り始める
「あ、ああ……ただ、お礼をちゃんと言っておきたいと思って」
「だったら、もう話は終わったでしょ?」
(そうじゃない! なんでよかったねって、今言えないのよ!)
彼女の内心の焦りも、もちろん久鎌井には伝わらない。
「そうだね」
彼は、少し申し訳なさそうな表情を見せた。
「僕はいまから病院に行かなきゃいけないし、これで失礼するよ」
「さっさと行きなさいよ、わたしも部活があるんだから」
綾香はもう、彼の顔すら見ることが出来なかった。久鎌井に背を向けてしまった。久鎌井も彼女の態度にどう対処したらよいか分からず、仕方なくその場を後にした。
— * — * — * —
「何だよ……」
屋上を後にした久鎌井は、悪態を吐きながら病院に向かっていた。
原因はもちろん、先程の花住綾香の態度だ。
(あんなに不機嫌な態度見せなくてもいいじゃないか)
確かに、彼女本来の性格と、学校で見せている外見は大きく違う。
彼女が久鎌井と会うときは、普段の人当たりの良い態度は微塵もなく、不満不機嫌を前面に押し出しているが、それでも何度か話をして、それなりに打ち解けてきたのだと、久鎌井は思っていた。それは自分の独りよがりだったのだろうか。
それに、月野雫を救うにあたって、間違いなく自分を応援してくれていた。そんな綾香の思いを久鎌井も感じていた。だから、当然、雫を救うことが出来た事実を一緒に喜んでくれると思ったのに。
「何だよ……ほんとに」
むしろ、一緒に喜べる唯一の人間といっても過言ではないだろうに。久鎌井の落胆もそれなりに大きなものであった。
(昼休みは先輩も、なんかからかってきたし……)
最後は笑顔を見せてくれたものの、ああいったからかい方をされるのは心外だった。
“アラクネ”に関して、久鎌井は別に好いた惚れたで手を差し伸べたわけではない。
救いたいと思ったから、手を差し伸べるべきだと思ったからしたまでのこと。
(まあ、先輩は大人っぽいけど、年頃の女性だし、やっぱりそういう話が好きなんだろうな)
久鎌井は年寄り臭い思考で心を落ち着けると、海月病院行きのバスへと乗り込んだ。
— * — * — * —
コンッコンッ
「は、はい」
部屋の扉がノックされ、少女は少々緊張気味に返事をした。
「失礼します」
中に入ってきたのは、少女――月野雫が待ちわびた人物であった。
「久鎌井くん……」
「こんにちは」
名前を呼ばれ、久鎌井は後ろ手で扉を閉めながら挨拶で答えた。久鎌井から見た雫の表情はとても心細そうな様子であった。
「どうかしたの? 今日はお父さんいないの?」
「……」
久鎌井は部屋を見回しながら尋ねるが、雫は久鎌井の顔を見つめたまま黙っている。
「どうしたの?」
「え、あ、いや、な、何もないよ」
はっと正気に戻った様子で、雫はかぶりを振った。
ようやく、顔に弱々しくも笑顔が浮かぶ。
儚げ、透明感がある、薄氷のような、そんな形容が似合ってしまう。それが月野雫の纏う空気であった。
不思議と見入ってしまう魅力がそこにはあった。
「お父さんは、今は家に戻ってる。部屋の掃除をしなくちゃいけないって」
雫の言葉に、今度は久鎌井がはっと正気に戻り、かぶりを振った。
「そうなんだ……ってことは、もうすぐ退院できるの?」
「お医者さんは、そう言ってた」
「そうか、よかったね」
「うん」
頷く雫であったが、やはり表情がただ弱々しいだけではなく、暗いものであるように久鎌井は感じた。
「本当に、どうかしたの?」
「だ、大丈夫……」
とりあえず笑顔を見せた雫は、少し思い耽ってから、急に何かを思い出したかのように手を叩いた。
「そ、そうだ! き、聞きたいことがあったの」
「なに?」
「く、久鎌井くんの家族のことを聞きたいなと思って……」
雫はとても言いにくそうに、上目遣いで尋ねた。
「ああ、いいよ」
何だそんなことかと、久鎌井はホッ胸を撫で下ろし、お安い御用と大きく頷いて話を始めた。
母親――久鎌井唯奈と、妹――久鎌井舞奈の話を始めた。もちろん、話が進めば父親の話にも触れる。
「お父さんがいないのは、り、離婚?」
「いや、僕が子供の頃、道に飛び出した僕を庇って、代わりに車に跳ねられたんだ」
「ご、ごめん。変なこと聞いちゃった」
「いいよ、別に。嫌だったら話さない。それに、僕は父親を誇りに思っている。家族思いの父親だったから。だから、僕は父の代わりに家族を守っていきたい。そう思って、まずできることから始めようと、家事をするようになったんだ」
「そうなんだ……」
「そう言えば、あのとき――君を庇ったとき、言ったよね、君のお父さんが僕に似ているって」
「……うん」
「君のお父さんは、君が意識不明になったことを自分のせいだって言っていた。僕も、父が死んだとき、何で僕が死なずに、父が死んでしまったんだろうって、自分を責めたんだ。だから、僕は父の代わりにならなきゃならないといけないと思った。そうじゃなければ、僕が生き残った意味がないって……だから、君のお父さんが自分を責めて、君を献身的に世話している姿を見て、似てるなって、思ったんだ……って、ごめん、変な話しちゃったね」
久鎌井は照れを誤魔化すように、軽く笑みを浮かべた。
「ううん」
雫は真剣な顔でぶんぶんと首を振った。
「そう? まあ……聞いてくれてありがとう」
「わ、わたしの方こそ、ありがとう」
久鎌井が頭を下げると、雫も頭を下げる。同時に頭を上げて眼が合ったときには、二人して何となく吹き出すように笑っていた。
しばらく何気ない話題で盛り上がった。気がつけば、もう一時間が経っていた。
「もうこんな時間か、早く帰らないと、それじゃあ」
「あ」
久鎌井が立ち上がったのに対し、雫は思わず手を伸ばした。
「早く退院できるといいね」
久鎌井は少女のその行動を気にした様子はなく、時間を気にして、最後にその一言だけ残して、病室出ていった。
「うん、じゃあね」
別れの挨拶を口にした時の彼女の表情を、久鎌井が見ることはなく、行ってしまった。
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