第7章 ボルテックス・オブ・ディストーション ー③

 花住綾香は、一人、机に顔を突っ伏していた。


(馬鹿みたい)


 何度も同じ言葉を自分に浴びせかけている。

 学校から帰ってきてからずっとこの調子だった。

 素直じゃない自分を、惨めな自分を、子供のような自分を、下らない自分をひたすらに罵倒し続けていた。

 塞ぎ込んで考えているうちに、綾香は、自分がどうして久鎌井のことが気になるようになったのかが、少しだけ分かってきた。


 綾香にとって、彼は唯一の存在だったのだ。


 彼女がアバターの所持者であることを知っているのは、“パンドラ”の人間を除いたら久鎌井しかいなかった。そして、綾香の本性を知っているのもまた、彼しかいなかった。


 綾香は椅子ごと鏡の前に移動すると、背もたれを抱きかかえるようにしながら顎をその上に乗せた。そして無表情に鏡を眺めた。

 力の入っていない顔。


(これが本当のわたし)


 多くのことを面倒くさいの一言で片付けてしまうようなものぐさな自分を、綾香は決して誰にも見せないようにしてきた。


 しかし、久鎌井には見せることになってしまった。


 彼は、アバターの状態である綾香の姿を知ってしまった。あのときの彼女は、本心そのものであると言える。それに、綾香は屋上に彼を呼び出し、本来の口調で、勢いにまかせて彼に警告をした。そうすれば、久鎌井が自分から興味を失うだろう思ったのだが、それが綾香にとっては大きな失敗だった。

 久鎌井が、警告を受けてもなお、綾香を訪ねてきたそのときから、彼女にとって彼は、本当の自分を知りながらも、認めてくれた唯一の人間になってしまっていたのだ。


(だけど、彼にとってのわたしは何だろう?)


 ただ、同じアバターの所持者であるだけなのだろうか?


 彼は、月野雫という少女を助けた。

 それに、昼食時には沢渡先輩と話をしているのを、綾香は知っていた。

 久鎌井の交友関係について、綾香は何も分からないが、最近の彼と関係が深い女性はそのくらいだろうか。

(まあ、鏡谷さんもいるか……)

 何にしろ、彼にとっては、自分も彼女らに並ぶ一人でしかないのかと思うと、綾香は情けなくて涙も出なかった。

 ここでグダグダしていても、答えは見つからない。

 でも、ここから抜け出せない。

 いつの間にか、部屋は暗闇に包まれていた。



 — * — * — * —



 月野雫は、またどこか分からない暗闇にいた。


 しかし、今はそれほど動じてはいない。

 目の前にもう一人の自分がいても、慌てるようなことはなかった。

 以前、目の前の存在が言った通り、この暗闇は、雫にとっては心地の良いものだった。


「ほら、彼はとても、家族思いだろう?」

 もう一人の雫が口を開いた。

「うん」

 本当の雫は、その声にうなずいた。

 この暗闇と同様、その声は不思議と、雫にとって心地よいものに感じられた。

「君とは大違いさ。君はあんなに父親に迷惑をかけてね」

「……うん」

「どれだけ自分が小さな人間か分かっただろう?」

「うん、彼は優しいだけ」

「だから、君を哀れんでくれているだけだよ」

「そう……そうだね」

 彼は誰にでも優しい。“アラクネ”がもし自分ではなかったとしても、彼は助けただろう。雫はそう思っていた。

「そうさ、そうでないわけがない。彼は優しいし、そして彼にとっては家族が一番大切だからな。君じゃない」

「そうだね。彼は行ってしまった。家族のもとに行ってしまった」

 自分は何を言っているのだろうと、雫は思った。彼が家族のもとに帰って、家族のために尽くすのは当然のことであるのだ。そんなことは分かっていた。

 しかし、それでも彼女にとっては、彼しか頼れる人がいないような気がしてしまっていた。助けるだけ助けて、そのまま去って行ってしまう彼を、彼の背中を、仄暗い感情で見つめてしまう自分がいた。


「そうさ、君なんて、彼にとってさして重要な存在でもないさ。その証拠に彼は自分のことをずっと『僕』と言っていたじゃないか。本当の自分を出す必要などない相手なのさ」


「!」


「そう、君にとって彼は全てだが、彼にとって君は家族の下の、他にたくさんいる人間の一人に過ぎないのさ」


「……ひぃっ」


 久鎌井にとっての家族と、久鎌井にとっての月野雫。天秤に掛ければどちらに傾くかは明白だ。雫もそんなことは分かっていたはずだ。理解もしているはずだ。なのに、その事実はぐいぐいと彼女の心を締め上げていく。


「君は一度絶望しただろ? そのときの方が楽だっただろ? 自分の感情に、君を包み込んだ激情に」

 引きちぎられそうになる少女の心。それを包み込み、飲み込もうとする甘言。

「……」

「そうだ、もう一度、身を任せてしまえよ」

「……楽になりたいの」

「そうだ」

「苦しいのは嫌なの」

「そうだ」


 心は黒く染まっていく。



 — * — * — * —



 鏡谷は、車の運転席から、月野雫がいるはずの病室を眺めていた。

「来たな」

 助手席の日比野が、ポツリと呟いた。

「……彼女は、負けたのか……」

 日比野がそう言うということは、アバターの存在を感知したということ。

「彼女は再び、アバターを暴走させてしまったのか」

「ああ、そうさ」

 突然、右の耳元で声がして、鏡谷は咄嗟に耳を押さえた。


「おっと、気をつけてくれよ。わたしのアバターはか弱いのだから」


 鏡谷の右耳付近に何か浮かんでいた。

 それは、良く見ると、蛇に似ていた。

 小さな蛇が、クエスチョンマークのように体を歪曲させて、浮かんでいた。


「……“エコー”」


 耳元に引っ付き、囁くことしか能がないアバター。

 白衣を着た蟷螂のような男、鏡谷の父親である、鏡谷かがみや英昭ひであきのアバターだ。

 力はなく、アバター所持者でないごく普通の人間の力でも握りつぶせてしまうほどの脆弱な珍しいアバターであるのだが、その囁く言葉は、人の心をひどく揺さぶる。その言葉や感情はあくまで本人の心の中にあるものを引き出し、繰り返し突き付けているようなものなのだが、だからこそ大きな影響を与える。


 “エコー”はふわふわ漂うようにして、鏡谷の目の前まで移動した。

 その口が動く。


「さて、日比野勇。君の出番だよ」

 “エコー”はそれだけを言い残して、煙のように姿を消した。

「ああ、言われるまでもない。予定通り……俺が吸収させてもらう」

 車から、日比野が降りた。


 次の瞬間、月野雫がいるはずの病室から、黒い何かが飛び出してきた。


 日比野はすぐにその後を追った。


「くそ!」

 鏡谷は感情に任せて、ハンドルを強く殴りつけた。


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