第7章 ボルテックス・オブ・ディストーション ー①
五月十八日 木曜日
早朝、まだ人通りもほとんどない時間。
鏡谷が一人、公園のベンチに腰掛けていた。
そこに初老の男が一人、歩み寄ってくる。
短く刈り込まれた髪は白く、頬が痩せこけているその容貌はまるで蟷螂のようだった。
しかし、背筋は真っ直ぐに伸び、眼光も鋭く、年齢を感じさせない。
丸い眼鏡と身に纏った白衣が、陰湿な研究者感を醸し出していた。
男は、何も言わずに鏡谷の隣に腰掛けると、彼女に顔を向けることなく呟いた。
「……どういうつもりだ、望」
「“アラクネ”は正気に戻る可能性があったので、そうしたまでですが?」
鏡谷は相手の顔も見ずに煙草を取り出して火をつけた。その行為からは相手に対する嫌悪感がにじみ出ていた。
「わたしは、いつも通りにしろと言ったはずだがね?」
男は不遜な口調。
「しかし、今回は久鎌井友多という協力者もいたので」
鏡谷もまた、男と目を合わせるつもりもない様子で、前を見つめて会話を続けていた。
「……我々の目的を忘れたのか?」
「……いえ」
「あまり、わたしに逆らうと、勇の薬を止めることになるがいいのか?」
「………」
ギリッと、鏡谷が奥歯を噛み締めた音が、薄暗闇の静寂の中、わずかに響いた。
「まあ、いい。もう一度チャンスをやる。昨日の夜、わたしのアバター――“エコー”で、“アラクネ”の少女をけしかけておいた」
「!」
「彼女はまだ、不安定だ。わたしの“エコー”の言葉で簡単に暴走するだろう。今日か明日にはな、くくくっ」
「くっ!」
男の笑いが、鏡谷の神経を逆撫でする。
「どうした? お前はいつも通りすればいいのだ」
男が立ち上がった。
「海月病院の近くで張っていればいい。成果を期待しているぞ」
男は振り返らずに、そのまま公園を後にした。
嫌気が、悔しさが、鏡谷の胸を競り上がってくる。
「くそ!」
吐き出された言葉の波紋は、すぐに消え、静寂だけが残された。
— * — * — * —
久鎌井友多。
彼は、花住綾香にとって、最初は、邪魔臭い男だった。
しかし、次第に気になっていった。
それは、困難に立ち向かう彼の姿に、自分の姿を重ね、ある意味、ドラマや小説の主人公に自分を投射するような感情で気になっていただけだと、綾香はそう思っていた。
しかし、それだけだとしたら、昨日自分の中に沸き上がった感情は何だったのだろうか?
彼が学校を休んでいると知ったときの感情は?
沢渡衣の口から彼の名前が出たときの感情は?
何もせず、アバターの姿でただ公園に一人でいたときの感情は?
この感情が何なのか分からない。
(嘘だ)
そうだ。もう、分からないふりなどできないくらいに、大きな感情になっている。
もう、認めない方が辛いほどに……
(わたしは、久鎌井のことが……)
コンコンッ
「失礼します」
突然のノックに、綾香は反射的に首を巡らせた。
扉を開けて、姿を現したのは乃々絵だった。
(もう、七時か)
綾香は時計を確認した。
今日、目が覚めたのは六時。それからずっとベッドで天井を眺めながら自分の気持ちと向き合っていた。
(ああ、今日も昨日とは違う一日が始まる)
今まで、綾香にとって毎日は代わり映えしないつまらないものだった。だから、昨日と違う一日が始まることは、それは素敵なことで、新鮮なことのはずであった。
しかし、綾香の心は、昨日のように晴やかなものではなかった。
外の快晴が、憎らしくて仕方がなかった。
— * — * — * —
(……………)
無言で登校する綾香。
彼女の頭の中を埋め尽くしているのは、久鎌井と顔を合わせたときにどんな顔をすればいいかということだった。
いま、久鎌井が目の前に現れたら、間違いなく綾香は嬉しい。
震えるほどに嬉しい。
自分の感情を認めてしまえば、素直に自分の感情を受け入れることができ、それは間違いなく幸福だった。
しかし、その時にどんな顔をすればいいのか分からない。
自分の感情を素直に表現してしまっていいのか。
(そ、そんなことできるわけない)
恐ろしく幸せな顔を見せてしまうだろう。それはあまりにも恥ずかしい。
正直、綾香には無表情で固まってしまう自分しかイメージできなかった。
せめて自然に、まずはいつも通りに接したい。そう思っても、その心の準備はなかなかできない。
だから今は久鎌井に会いたくないのだが、同じクラスでいる以上、教室に入れば嫌でも顔を合わせてしまう。
(それは仕方ないとしても、せめて登校中には会いたくない)
だというのに、そう考えていると会ってしまうのが世の摂理か、それとも運命の悪戯か、綾香は視線の先に、彼の背中を捉えてしまった。
(は、はああぁぁぁ、もう、何でよ!)
綾香は、とりあえず彼から気づかれないように距離をとりつつも、視界からは外さないように歩いていた。
しかし、登校中であれば当然現れる難関が、彼女を待ち構えていた。
昇降口だ。
久鎌井が靴を履き替えるために向きを変えると、綾香を視界に捉えたようで、目を合わせて笑顔を浮かべてきた。
「花住さん、おはよう」
久鎌井はそのまま、綾香の傍に駆け寄ってきた。
「お、おはよう」
いつもの作り笑顔と、ただ返すだけの挨拶。もとからのそっけない態度を綾香は再現し、自分ではそれなりに様になったと思っている。
久鎌井も特に何かに気が付いた様子はなかった。
ただ、その後の一言には彼女は対応できなかった。
「今日、授業後屋上で話ができないかな?」
「え、あ――、あ? うん、大丈夫ですよ」
驚きに笑顔が引きつる。
「それじゃあ」
久鎌井は、そんな明らかに変なところから声を出してしまっている綾香の様子を気にもせず、告げることを告げて満足したのか、昇降口に戻っていった。
綾香は、思わず自分の胸に手を当てた。
(この……高鳴り)
喜びに震えているのだと、自分でもわかった
— * — * — * —
久鎌井にとっては、一日ぶりの学校。
学校を休んだのは久しぶりだった。ということは欠席明けの学校も久しぶりだった。
(何となくだけど、どきどきするな)
今まで連続していた学校生活が、欠席したということでバッサリと断たれるのだ。授業は進んでいるだろうし、周囲の目も、いつもとは違う。普段は久鎌井の顔を見て何も思わなかった人間も、「ああ、久鎌井のやつ、今日は来ているんだ」くらいには考える。中には久鎌井に声を掛ける生徒もいる。
「おはよう」
「おはよう」
名前もろくに知らないクラスメイトの挨拶も、いつもと違う感じがしてしまう。気の持ちようというのは本当に見える世界を変えるのだな。そんなことを考えつつ、綾香に放課後の約束を取り付けた久鎌井は、そのまま軽やかに教室の中に入っていった。
すると、彼の机の周りに陣取っていった見覚えのある四人の生徒が、一斉に彼を振り返った。
「おっほっほ、あら久鎌井くんじゃありませんこと」
非公認沢渡衣親衛隊ユリレンジャーが一人、何故か今日はお嬢口調なユリレッド。
「ああ、おはよう」
とりあえず、久鎌井も挨拶を返した。
「御機嫌よう」
別の少女がそれに答える。これまた何故かお嬢口調のユリイエロー。
「もう体の調子はいいんですか?」
いつもと変わらない様子で久鎌井に尋ねるのはユリピンクだ。
「朝からすいませんね。わたしは止めたんだけど」
ツッコミ役の少女が久鎌井に頭を下げた。彼女は他称ユリブラック。
「ええと、どうしたんですか」
相手にしたくないなと思いながらも、机に陣取られてはどうしようもない。久鎌井はとりあえず、目の前の四人組に説明を求めた。
「あなたたち、何でお嬢口調に乗らないのよ!」
「そうよそうよ!」
「えっと、えっと、お加減の方はもうよろしいのでございますの、久鎌井様」
「それ、メイド?」
「あう」
なかなか説明が始まらない。
「とりあえず、久鎌井くんが困っているし、説明しよ?」
一番の常識人、ユリブラックが久鎌井の意を汲んで、話を促した。
「うむ、そうしなければ始まるものも始まらないな」
「お、お願いします」
「昨日、君が学校を休んだわけだが、昼休みに沢渡先輩が訪ねてきましたよ?」
「『久鎌井くんはいる?』って。綾ちゃんが『今日は欠席です』と伝えると『そう、仕方ないわね』って!」
鼻息の荒くなるレッドとイエロー。二人の話だけで久鎌井には状況が飲み込めてきた。
(昨日、俺が弓道場に来ないもんだから沢渡先輩が教室に来たんだな。それで彼女らはまた俺と先輩の関係を疑っているということか……)
衣がそのような行動をとることは、久鎌井には容易に想像できた。
(まあ、この四人が俺に声を掛けてくるんだから、また誤解されているってことだよな)
衣の行動は仕方がないとしても、さて目の前の四人の追及をどう躱すかは思案のしどころだ。
「あの、前は進学の相談をしているって言ってましたけど、まだ相談しているんですか?」
「あ、うん」
ピンクの質問に、久鎌井はごく自然にうなずいたのだが、
「嘘。仮に進学の相談が本当だとしても、ずーっとその話ばかりしているの? 久鎌井くんはいつもお昼になると教室にいないし、本当のところはどうなのかなあ?」
ブラックは鋭く切り込んできた。
「やっぱり、久鎌井くん、せ、先輩と……」
(ユリピンクさん、それ以上はあまり口にしないで欲しい……)
レッドとイエローの視線が久鎌井に突き刺さる。それはもう血が出そうなほどに。それに周囲の一般生徒までが耳をそばだてている気配を感じる。
(さて、ここは黙っていてはいけない)
「えっと、相談しているんだよ」
久鎌井は内心の焦りを隠し、事も無げに答えた。
「「「「何を」」」」
四人同時の追及。疑問形のはずなのにクエスチョンマークを感じさせないほど強い口調だ。
それでも久鎌井は冷静を装い、思考を巡らせた。
(前は、少し涙を誘う演出で誤魔化したが、同じ方法は通用しなさそうだしな。なら……)
「妹のことを相談していたんだ」
久鎌井は妹思いの兄を強調するために、そう答えることにした。
「僕には妹がいて、もうすぐ誕生日なんだ。その、誕生日プレゼントは何がいいかって。先輩って、いい人だから……その、僕も申し訳ないなって思いながらもつい。進学相談のついでに聞いてしまって……」
「ふふふ、そんな話にわたしたちが騙されるとでも思って?」
ブラックに入れ知恵でもされたのか、レッドが久鎌井に対し、疑いの眼差しを向けるが……
「そうだったんですか。久鎌井くんって、妹さん思いなんですね」
ユリレンジャー唯一の良心、ピンクはあっさり納得していた。
「騙されてる!」
イエローも思わずツッコむ純真ぶり。しかし、今がチャンスだと、久鎌井はピンクだけに話をするようにして続けた。
「ああ、妹ももう年頃だから、子供騙しのものじゃいけないなって思って、そうしたら先輩が女性向け雑誌を持ってきてくれるって言ってくれて、昨日がそれを受け取る日だったのに、学校休んでしまったから。先輩には悪いことしてしまった。今日、謝りに行かないと」
「そうなんですか。プレゼント、妹さんが喜んでくれるといいですね」
ピンクはにっこりと笑った。
「ああ」
久鎌井は頷きながらも、これだけすらすら作り話が出てくる自分自身に驚いていた。ただ、ユリピンクの疑うことを知らない笑顔に、彼の罪悪感が刺激される。とはいえ、もう後戻りはできない。
「まあ、とにかく、君たちが考えているようなことはないよ」
すっかり納得してしまったピンクの様子に、レッドとイエローも毒気を抜かれたのか、「それじゃあ仕方ないか」と口々に言って久鎌井の元から去っていった。
ツッコミ役ブラックも、自分の席に戻っていったが、去り際に――
「意外と女性の扱い方がうまい人なんですね」
と一言残していった。
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