第6章 ア・フリーティング・カーム ー③

「ねえ」

 声が聞こえた。


「ここは、どこ?」

 雫は目を開けた。


 周りは真っ暗だった。目を凝らしても何も見えてこない。

 ここは病室じゃない。それは分かった。

 暗闇には馴染みがあった。それは、昨日まで雫が浸っていた心の闇の中。


(でも、ここは、少し違う)

 そんな気がした。


「夢の中ってことにしとこうか」

 突然、何者かの声が空間に響き渡った。

「誰?」

「あなた、久鎌井くんのことどう思っているの?」

「え?」

 後ろから聞こえてきた気がして、雫は振り返った。


 そこには、自分が立っていた。


 もう一人の自分が目の前にいる。本当に夢の中なら、何があっても不思議ではないのだろうが、雫は言い知れぬ不安を感じた。


「あなた、何?」

 雫はもう一度尋ねた。

「ふふっ、見ての通りよ……。でどうなの? 久鎌井くん、好きなの?」

 もう一人の雫は、同じ質問を繰り返した。

「す、好きとか、嫌いじゃなくて」

 唐突な内容に、雫は答えることが出来なかった。

「じゃなくて?」

 しかし、もう一人の雫は追及をやめようとはしなかった。

「助けてくれたから……」

「助けてくれたから、好きになったの?」

「そうじゃなくて……」


 確かに、雫は久鎌井に対して好意は持っている。それは中学のころ、自分を庇ってくれたその頃からあった。しかし、男女の恋愛感情といえるレベルのものではないと、自分でも感じていた。あの頃、久鎌井とは大して話をしたことがなくとも、それでも唯一味方してくれていた人間であったことは確かだった。その記憶は、心の闇に捕らわれていたときにも過ぎったほどだ。


「ふーん、あなたにとっては大切な人なんだねえ」

 もう一人の雫の顔は同情するように目を細めた。しかし、次の瞬間には嫌らしい笑みに変わった。


「彼はあのときのことなんて、つい最近まで忘れてたけどね」


「でも、それでも助けてくれた! 優しい言葉をかけてくれた!」

「彼は後悔していたみたいだからね。あなたのためじゃないわ。自分のためよ。あのときも言っていたでしょ? 『俺が守りたいからだ』って」

 狐がような笑顔で、もう一人の雫は、クククッと笑っている。


「………」


 雫は言葉を失っていた。

 漠然と感じてはいたのだ。

 彼の言葉で目を覚ました。彼の言葉通りに、耳を傾け、父の声を聞き、確かに自ら目を開けようと思い、暗闇の中から這い出ようと思った。しかし、彼女には父しかいないし、久鎌井しかいなかった。


 これから自分は結局どうなるのだろうと……


 だから彼女はつい口にしてしまったのだ、明日も来てくれますか? と。

「彼、来る気なかったね」

「やめて!!」

 心の内を見透かしたようなもう一人の雫の言葉に、雫は耳をふさいだ。

「耳をふさいでも意味ないわよ? わたしの声はあなたの内なる声なのだから」

「やめて!!」

 不安が、恐怖が、彼女の心を曇らせていく。

「彼は憐れんでいただけよ。そして自分でヒーローになりたかっただけ。結局、自己満足なのよ。これから先のあなたの人生を助けてくれるわけじゃないのよ」

「そ、そ、……そんなの、わかっ、わかっ、ているわよ」


 もう一人の自分の言葉は、不安に覆われ始めた少女の心には、冷たく突き刺さる。


「そんなふうにどもって……。何も変わらないのよ。あなたは……。彼は昔とは違うわ。変わっている。だってあなたはずっと寝ていただけ。彼は日々精進していた」

 楽しそうに言葉と続ける自分の姿に、雫は怯えることしかできなくなっていた。

「ふふふっ、そういえば家族のご飯を作るのは彼の役目らしいわね。なんて家族思いで、優しい人なんでしょう」

「そ、そうだよ。久鎌井くんは、や、やさ優しいよ」

「そう、きっと、誰にでも……」

「……わかってる、わかってるから……やめて」

 少女はうずくまり、ただひたすらに耳を塞ぎ続けた。


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