第6章 ア・フリーティング・カーム ー②

 結局、久鎌井は学校を休むことになった。

 どんなに隠そうとしていても、いつもとは様子の違う動きに、妹も母親もすぐに気が付いた。

 それでも久鎌井は学校に行くつもりだったが、母親が真顔で止めた。

 妹は「自分も休む! わたしが看病する!」と駄々をこねていたが、それは母親がなだめた。

 そして、二人がそれぞれ家を出た後、久鎌井は布団に入るとすぐに寝入ってしまった。


 次に目が覚めたときには、時計の針は正午を回っていた。

 彼を起したのは家の電話の音だ。

 久鎌井が受話器を取ると、相手は母親だった。

 昼休みに入って電話をかけてきたのだ。スマホではなく家の電話に掛けてきたのは、もしも寝ているのならば起こしてはいけないとの気遣いからだった。

 久鎌井もそんな母親の気遣いに気づき、電話の音で起きたことは隠して、もう大丈夫だと伝えた。

 実際、一眠りするとだるさも痛みもだいぶ和らいでいた。痛みがなくなってはいないが、一動作ごとに汗を滲ませる必要はなくなった。

 久鎌井が受話器を置くと、続けざまに電話が鳴った。

 今度は妹だった。

 電話が終わると、久鎌井はありもので簡単な昼食を作って食べた。

 一息ついて時計を見ると、一時半。


 久鎌井は家を出た。


 向かった先は海月病院。


 もちろん、彼が診察を受けるわけじゃない。月野雫の様子を見に来たのだ。

 病院前にはバスの停留所があるため、鏡谷の送りがなくとも難なく辿り着くことができた。

 病室に向かいながら、久鎌井は昨夜のことを思い出していた。

 日比野の攻撃から庇っていた自分の後ろから聞こえた少女の声。それは、誰かを憎んで憎んでやまない“アラクネ”のものとは、違っていたように、久鎌井は感じた。

(月野さんは、目覚めることができたのだろうか)

 最後に、自分が背中に触れた彼女のものと思われる手は、小さくて、か弱くて、心細い少女のものだった。決して蜘蛛の手はなかった。

 何かが変わったのだと思った。

 だから、久鎌井は期待していた。彼女が目覚めていることを。


 久鎌井は病室の前まで来た。


 心臓が高鳴る。


 扉に手を掛けようとしたとき、中から、声が聞こえた。


「おいしいか?」

「……うん」


 それは、父親と娘の声。


(よかった)

 久鎌井は、扉に掛けていた手を離した。

 半年以上の間、いや、もしかしたらもっともっと長い間かもしれないが、離れ離れになってしまっていた親子の心が、今ようやく触れ合っているのだ。自分が邪魔して良い訳はない。

 久鎌井は踵を返した。

 そのとき、扉が開いた。

「昨日の君……久鎌井くんだったか?」

「あ、はい」

「雫が、雫が目を覚ましたんだよ! ほら、入ってくれ!」

 久鎌井の顔を見るなり、雫の父親は久鎌井の肩を掴んで、嬉しそうに部屋に招き入れた。

「久鎌井くん……」

 爪楊枝に刺さったリンゴを手に、少女――月野雫はキョトンとした顔で久鎌井友多を見ていた。

「ああ」

 何となくは気恥ずかしくなって、久鎌井は鼻を掻いた。

 それを見て雫が少し笑った。

「お父さん……久鎌井くんにも、リンゴあげてもいい?」

「ああ、もちろんだ」

 そう言って、父親は久鎌井に椅子を勧めた。

 久鎌井は言われるがままに腰掛け、切り分けられたリンゴを一つ受け取った。

「それじゃあ、お父さんちょっと外に出ているよ。久鎌井くん、ゆっくりしていきなさい」

 そう言って、父親が部屋を出て行こうとする。

 それは申し訳ないと、久鎌井が彼を引きとめようとしたとき、父親の瞳が潤んでいることに気がついた。

 久鎌井は何も言わずに頷いた。


「あ、ええっと」

 急に二人きりになってしまい、気の聞いた言葉というものが浮かばず、久鎌井は照れ笑いを浮かべることしか出来なかった。目の前の少女は、そんな久鎌井の顔をまじまじと見つめていた

 雫は、久鎌井の記憶にある頃と比べて髪の毛が伸びていたが、そのお人形のような佇まいは本当に変わらない。可憐な少女であった。

「……久鎌井友多くん」

「あ、は、はい!」

 不意に名前を呼ばれて、久鎌井もまたじっと彼女を見ていたことに気がづいた。雫は久鎌井の狼狽した返事を気にもせず、小鳥がさえずるような可愛らしい声で言葉を続けた。

「すぐに分かった。久鎌井くんとは……ずっと、会ってなかったのに」

「え、でも昨日……そうか、あのときはアバターだったから顔も何もないか」

「あばたー?」

「ああ、ごめん。そのあたりはまた話をしよう。でも、どうして分かったの?」

「うーん」

 雫は首を傾げた。その仕草は幼かった。

「雰囲気かな」

「……雰囲気?」

「あのときの久鎌井くんと、今の久鎌井くん。見た目以外は全部一緒に見えるよ。わたしには」

「そうなんだ。……って、単純に僕がそれほど中学のときと変わっていないだけかもしれないね」

 はははっと、二人して笑った。


「落ち着いているみたいだね。昔はどうしても言葉に詰まっていたけど」

 久鎌井の記憶の中の彼女は、誰かと話をしようとすると、いつもどもっていた。それもからかわれる原因の一つではあった。

「……そういえば……気づかなかった」

 雫がはっと口元に手を当てた。

「さっきまでお父さんと話していたからかな?」

「多分、久鎌井くんだからだよ」

「僕だから?」

「久鎌井くんは、怖くないから。優しいから、普通に話せる」

「そうなんだ」

 飾らない言葉を真正面にぶつけてくる雫の言い回しが、久鎌井には何ともむず痒い。

「でも、久鎌井くんは何で『僕』って言ってるの?」

「え?」

「昨日は、『俺』って言ってたよ?」

「癖みたいなものだよ。僕――ああ、俺は、人前で話をするときはいつも『僕』って言ってしまうんだ。家族の前では『俺』なんだけどね」

「そうなんだ」


 そうやって、久鎌井と雫はいくつかの言葉を交わした。

 久鎌井とて、普段なら話慣れていない女性と会話が弾むタイプではないが、雫の前では自分が彼女を楽しませないといけないような気になって、少し頑張って話をしていた。その中で彼女はぽつりぽつりと気になったことを聞いてくる。

 ゆっくりとした時間の流れる中、久鎌井は目の前の少女を助けることが出来たという実感を噛み締めていた。


 父親が戻ってきて、久鎌井が時計に目をやると、もう一時間近くが経過しようとしていた。

「もう、帰らないと」

 久鎌井は慌てて席を立った。

「え?」

 雫が少し寂しそうな表情を見せたが、久鎌井がその表情に気づいた様子はなかった。

「うん、家族のご飯作らないといけないから」

「君がご飯を作っているのかい?」

 雫の父親が、感心したという表情で久鎌井に尋ねた。

「ええ、そうなんです。それじゃあ失礼します」

「あ、あの……」

 久鎌井が扉に手を掛けたところで、雫に声を掛けられた。

「ん?」

「あ、明日も、き、来てくれますか?」

「明日か……。うん、学校が終わってからでよければ」

「ああ、ぜひ来てくれ」

 久鎌井の言葉を聞いて、父親も嬉しそうに頷いていた。

 そうして久鎌井は病室を後にした。



 — * — * — * —



 途中スーパーに寄り、久鎌井が家に帰ってきたのは、六時近くだった。

「ただいまー」

 久鎌井が玄関を開けると、妹の舞奈が仁王立ちしていた。

「どこ行ってたのー、友ちゃん」

 ジトリとした目は、明らかに兄を非難していた。

「ああ、買い物だよ」

 久鎌井は何も悪いことをしていたわけではないのだが、説明が面倒くさいので少しだけ嘘をついた。

「買い物だよ、じゃなーい! 友ちゃん病人なんだから休んでなきゃだめでしょ! スマホも電源切ってたみたいだし」

「あ」

 病院に入る際に切ってそのままだったことをすっかり忘れていた。

「ああ、悪かった」

「心配したんだから!」


 そうやって大声を上げる舞奈は、少しだけ涙ぐんでいた。


「ああ、本当に悪かった」

「うーーー」

「とにかく、晩飯の用意をしないとな」

 久鎌井は買い物袋を持っていない手で唸る舞奈の頭を撫でると、玄関を上がった。

「む!」

 その際、舞奈は久鎌井から買い物袋を取り上げた。

「どうした?」

「今日はわたしが作る」

 そう言うと、舞奈は不機嫌なまま台所に向かった。

「おい、舞奈。お前料理できたか?」

「友ちゃんにもできるんだから、わたしにだってできるよ!」


(絶対できない人の理論だ)


 そうは思うものの、妹を泣かせた手前、久鎌井としても無理に止めるのは忍びなく感じていた。

「ちょっと待て、テストだ」

 久鎌井は舞奈を追い越すと、棚から調味料を出した。

 プラスチック容器に入った、顆粒状の調味料。

「これはなんだ?」

「……しお?」

「砂糖だ」

「え、砂糖ってこんな紙袋に入ってんじゃないの?」

 舞奈が両手で長細い四角を作る。

 どうやらスティックシュガーのことらしい。

「……じゃあ、味噌汁の作り方を簡単に言ってみ?」

「お湯に味噌を溶かせば味噌汁でしょ? 後は具を適当に入れれば完成よ」

 舞奈の中では出汁は存在しないらしい。

「……じゃあ、この卵、割ってみ」

 と言って、久鎌井は生卵と皿を渡した。

「これは大丈夫よ。テレビで見たことあるもん!」

 彼女の自信満々の一言は、久鎌井を強烈に不安にさせた。

 案の定、おそらくテレビで見たであろう片手で割るやり方を真似しようとして握り潰した。

「きにゃーー!!」

「俺がやるよ……」

 久鎌井はため息交じりに呟いた。

「わたしがやる、わたしがやるの!」

 舞奈は涙目になりながら、それでも食い下がってきた。彼女としてはいたって真面目に言っているのだ。

「じゃあ、手伝ってくれるか? 一緒に作ろう」

「うん!」

 兄の提案に、妹の顔が一転して笑顔に変わった。


 久鎌井はふと思う。妹が何をしてくれることよりも、この笑顔さえ見せてくれれば、それだけで不思議と元気が出る。彼女は冗談でなく、本当の意味で久鎌井家のマスコットだった。いるだけで、その存在で、一挙手一投足で家族を和ませてくれる。

「さあ、始めよう」

 そのとき、家の電話が鳴った。

 相手は母親の唯奈だった。

「友ちゃん? 今日のご飯どうする? コンビニで弁当でも買っていこうか?」

「いや、体はもう大丈夫だから、作って待ってるよ」

「そう、無理しなくてもいいのよ?」

「いや、舞奈も手伝ってくれるって、張り切っているから」

「そっか、それじゃあ楽しみにしている」

「うん、待ってるから」

 電話を切った。

 妹に引き続いて、母親も気遣ってくれている。

(たまには学校を休むのもいいかもしれないな)

 久鎌井は一人、心の中で幸せを噛み締めていた。



 — * — * — * —



 一日を終え、久鎌井は部屋のベッドで横になった。

 一日を振り返ると、思い浮かぶのはやはり月野雫の顔だった。

 病室を訪ねた時、彼女はリンゴを食べていた。

 昨日までは眠り続けていた少女と今日は言葉を交わすことができた。

 その時、自分が過去助けられなかった少女を、今度こそ助けることが出来たのだという実感がわいてきた。

 久鎌井も、これで過去に彼女を見捨てたことを帳消しにすることができる、とは思わない。その事実はこれからも自分が背負っていかなければいけないことだ。しかし、それを背負った上で、彼女と向き合い、それでも自分がしなければならないと感じたことを、やらなければならなかったことをやり遂げることができたのだ。


 これ以上にない充実感が、全身を満たしている。


 ただ、しばらく白騎士になることは難しいだろうと、久鎌井は感じていた。

 鏡谷は、アバターの状態で力を使い切ると、しばらくはアバターになることはできないと言っていた。それに昨日までは張り詰めていた気持ちも、今はすっかりと抜けてしまい、白騎士になろうという思いも、今はなかった。

 もう黒い蜘蛛が出ることはないのだから、しばらくは白騎士休業でいいのかもしれない。


「……でも、花住さんに会えないな」


 昨夜、久鎌井の近くにいた少女。

 あのときの綾香の外見は人間の姿ではなかったし、久鎌井も“アラクネ”と対峙することで精いっぱいになっていたが、熱心に声を上げ、自分を応援してくれていたことは、彼も感じていた。

 “アラクネ”の正体が月野雫ではないかと思い始めてからは、そのことで頭が一杯で、久鎌井には他のことを考える余裕はなかった。しかし、そのころから綾香が自分のことを気にかけ、心配してくれていたということは伝わっていた。

「お礼を言わないとな」

 彼女がアバターの所持者であると知ったときにはしつこいほど声をかけ、彼女の大事な時間を邪魔したというのに、彼女は自分のことを気に掛けてくれていた。

 それが何故かは良く分からないが、彼女は自分が“アラクネ”を助けようとすることを応援してくれていた。

 綾香にも雫が目を覚ましたことを伝えたい。それは綾香の支えがあったからこそできたことだと思うから。


 そして、是非お礼が言いたい。


 それが久鎌井の素直な感情であった。

 久鎌井は、今日は学校を休んだ。そして、アバターになることもできなければ、夜に会うこともできない。

「明日か……」

 少し遅くなってしまうが、仕方がないだろう。

(そういえば、月野さんに、明日も来て欲しいといわれたな)

 正直なところ、明日は顔を出す気はなかったのだが……

(まあ、うちの晩御飯の時間は遅めだから、準備も間に合うだろう)

 そろそろ目蓋が重さに耐えられなくなってきた。

 そのまま、満ち足りた思いを抱いたまま、久鎌井は眠りの海へと沈んでいった。



 — * — * — * —



 その夜。

 綾香はいつも通り、アバターの姿となり、公園の茂みにいた。

 しかし、いつものように能力で何かを作って遊ぶことはしなかった。


 ただ、一人でそこにいた。


 時折星を見たり、草を弄んだりしながら、そこにいた。


 そこで、待っていた。


 しかし、今日は誰も来ることはなかった。

 鏡谷も、日比野も、


 久鎌井友多も。


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