第6章 ア・フリーティング・カーム
第6章 ア・フリーティング・カーム ー①
五月十七日 水曜日
久鎌井が目覚めると、見慣れた天井が視界に飛び込んできた。
(……自分の、部屋だな)
夢遊状態のまま意識を失うようにして限界を迎えたためか、彼の頭の中はいまだ靄がかかったようにはっきりとしない。
それでも自分の部屋であることは認識し、何気なく視線を動かして周囲を見渡した。
時計が目に入った。
(……ん、何時だ!?)
一瞬でスイッチが切り替わったかのように、久鎌井は自分がやるべきことを思い出した。今日は平日だ。朝ならば家事を始めなければいけない。
時計の針は六時少し前を示していた。
こんな状況でも、自分の体がルーティンを忘れないことに我がことながら驚きつつ、定刻を過ぎていないことにホッと胸を撫で下ろした。
ジリリリッ、ジリリリッ、ジリリリッ
まもなくして鳴り出したアラームを、久鎌井がいつも通り止めようと手を伸ばしたそのとき――
「いぎぃ!」
全身に痛みが走った。
ジリリリッ、ジリリリッ、ジリリリッ
アラームはやかましく鳴り続ける。
(やっぱり無傷なわけないか……こんにゃろ!)
久鎌井は歯を食いしばって手を伸ばし、アラームを止めた。
そして、体を起こした。
動かすたびにビキッビキッとそこら中が痛む。まるで強烈な筋肉痛のようだ。
それでも、久鎌井にはやらなければいけないことがある。弁当の準備に取り掛からなければならない。
「くっ……ほあ………ぬ……」
久鎌井は額に汗を滲ませながら一階に下りた。
時折変な声をあげながら何とか弁当と朝食の準備が終わると、次は母と妹を起こさなければいけないのだが、その前に久鎌井は洗面所で鏡の前に立った。
寝間着を脱ぐと、全身を確認した。
アバターのままとはいえ、昨日はあれだけ激しく争ったのだ。体の所々には痛々しい青あざがあった。
これは彼女らに見られるわけにはいかなかった。
こんな姿を見られて要らぬ心配をさせてしまう。
久鎌井は先に制服に着替えると、二人を起こしにいった。
— * — * — * —
綾香が目覚めると、いつもの天井が視界に飛び込んできた。
見慣れた天井、見慣れた部屋。
慣れた感触のベッドに、見慣れた時計。
針は六時五十分を指していた。
(少し……早い)
また、乃々絵が起こしに来る前に眼が覚めた。
一昨日も早く起きたが、あの時は気分が悪く、しかも六時前に起きていた。
今日は違う。昨日よりもさらに気分がいい。
綾香は上半身をゆっくり起こした。
日比野に殴られた部分が少し傷んだが、普段通りに生活するのに支障はなさそうだった。そんな些細なことは、今の彼女には気にならなかった。
「久鎌井……やったね」
この言葉。
昨夜、彼に届いたか分からないが、思わず呟いた一言を、綾香はもう一度噛み締めるように口にした。
喜びが、彼女の胸にこみ上げてくる。
久鎌井はやり遂げた。
彼はただ、真っ直ぐな心と言葉と行動を伝え、そして“アラクネ”はその場を去った。
それだけでは彼女が救われたかどうか分からない。彼女が、意識不明から戻ったかどうかもまだ分からないが、綾香には何やら確信があった。
“アラクネ”が最後に見せたあの姿。
綾香は思う。髪の毛の長い少女の姿が“アラクネ”の本当の姿なのだと。あれは彼女のアバターが、所持者である彼女の心の制御下に入ったことの現れだと。それに、最後に手を伸ばしたときの表情。そこに狂気はなく、少女の人格が宿っていた。
久鎌井は、仕方ないと諦めてしまった方が楽と思われる状況に立ち向かい、見事目的を達成したのだ。
この結果に、綾香はとても満足していた。
自然と笑みがこぼれる。
コンコンッ
「失礼します」
部屋がノックされると同時に、扉が開いた。
乃々絵だ。
「あら、お嬢様、起きていらっしゃったんですか?」
「おはよう」
綾香は、咄嗟にいつも通りの笑顔を作って見せた。
その笑顔は、先ほどとは全くの別物。
似て非なるもの。
(わたしは……変わらない)
それでいいのだ。久鎌井の勇気ある行動を見たからといって、勇気付けられて、自分も今の困難な状況を打開しようなどとは、綾香は思わなかった。
もう、諦めてしまって久しいから、今さらどうこうすることもできない。
(わたしはすでに傍観者だ)
今から主役になるには、かなりのエネルギーが必要になる。そうする気力は、彼女にはない。それに、母の悲しむ顔はもう見たくなかった。
綾香は、久鎌井友多の物語を見ることができて、そして一番の特等席でその成り行きを見られたことで、とても満足していた。
(おかげで、いつもの代わり映えのない日常にだって耐えられる)
いつも通りの笑顔で乃々絵に応対し、着替え、綾香はダイニングへと向かった。
しかし――
「あら、綾香ちゃん、何か嬉しそうね?」
母のその一言は突然だった。
「え?」
綾香は朝食の最中だった。
内容はシャケに卵焼きにお味噌汁。朝ごはんはいつも同じようなメニューだが、味は絶品だ、乃々絵は料理が上手だった。
(母が驚くほどおいしそうに食べていたのかしら?)
綾香はそう思った。そうとしか思わなかった。
しかし、続く母の言葉に、綾香は思わず箸を落とした。
「昨日から様子が違うわ、何かあったの?」
気づかれていた。
綾香は、自分の機嫌が良いことなど、誰も気づかないと思っていた。
外では笑顔の仮面をかぶり、家の中では良い子の衣を纏い、本当の自分の感情が外に出ることなんてない。それが負の感情だろうが、正の感情だろうが、自分は自分を押し殺すことを当たり前として、それに慣れきっているのだから、誰かに心の内が知れることなど、ないはずだと思っていた。
しかし、母は気づいていた。
そして、驚く綾香に対して、母はいつもよりも嬉しそうな笑顔で尋ねた。
「もしかして、好きな子でもできた?」
「な、な、な、何言ってるのよ、お母さん!」
綾香が思わず立ち上がった。
「あらあら、図星ちゃんなのねえ、おほほほほ」
「ほほほじゃなくて、そ、そんなんじゃ――」
「……お嬢様、お茶です。落ち着いてください」
「ああ、ありが――って乃々絵も聞いてたの!?」
「わたしはずっとお嬢様の傍に居りましたが?」
「そうだった。ああもう!」
「落ち着いて、お座りなさいな」
母の顔には、ニヤニヤと楽しそうな笑みが浮かんでいた。
綾香の母親は、常に笑顔の人だ。それでもこれだけ多彩な表情を見せたのは、綾香の記憶にない。
言い返そうにもろくな言葉が思い浮かばず、綾香は仕方なく母の言う通り椅子に座り、乃々絵の差し出したお茶に口をつけた。
「それにしても、ふふふ」
目の前の母は、本当に嬉しそうだった。
幾つになっても、女性は色恋の話題が好きなのだろうか。
(わたしは、そんなことに興味はない)
父からは、高校生での恋愛はしてはいけないと言われているのだから。もうあきらめている。
「だから、別にそんなんじゃないわ」
綾香は不機嫌にそう言い放つが、だったら何故こんなにも焦っているの、と心の中で小さくつぶやく自分がいることにも気が付いていた。
「まあまあ、今はお父様いらっしゃらないのだから、気を使う必要はないわよ。女しかいないんだから、正直になっちゃいなさい」
「だーかーらー!」
綾香が再び立ち上がろうとすると、母親の表情が変わった。
「ふふ、冗談よ。でもね、綾香ちゃん」
その母親の表情を言葉で表現するとしたら、慈愛、だろう。優しく、喜びに満ちた、温かく、穏やかな笑みを浮かべ、母は続ける。
「あなたはいろいろ我慢してきたと思う。だから、もういいのよ?」
「もう、いい?」
それは、どういうことなのか、綾香にはすぐに判断できなかった。
「ええ、お父様が勝手に作った決まり事に縛られる必要はないわ」
「そんなこと……」
突然言われても、彼女にはどうしたらいいのか分からなかった。
「あの人はどうにかあなたを良い女の子に育てたいと思って厳しくしつけたけど、あの人も男兄弟の中で育ったし、女の子をどう育てていいか分からないものだから、今の時代にそぐわない事も多かったと思う。それ自体が間違っているとは言えないけど、でももう、高校生のあなたには必要ないわ」
「……お母さん」
「でも、あまりお父様に強く言えないお母さんを許してね?」
「そ、そんなことないよ」
母の優しさがあったからこそ、温かさがあったからこそ、自分はこの家で暮らして来られたのだと、綾香は確信を持って言える。
「ありがと、でもあの人もきっと気づいているわ。乃々絵を使用人にすることを許してくれたもの」
「え?」
綾香は乃々絵に振り返った。
「前の使用人の神取さんはまだまだ働けたかもしれないけれど、あなたに年の近い人を紹介してもらったのよ。あなたには、お姉さんみたいな人が必要かと思ってね。思春期はいろいろ悩みも多いだろうし、でも、あなたがあまりにいい子だから、返って心配になってね」
「それでわざわざ?」
「はい、そうらしいです」
乃々絵は、笑顔とともに首を縦に振った。
「お父様にそんなわたしの考えを話したら、何も言わずに頷いてくださったわ。あの人も、おかしいとは思っているはず、でも、どうしたらいいか分からなかったのよ」
「そうだったの?」
自分は、何も知らなかった。何も気づかなかった。分からなかった。
(なのに、わたしは一人で分かった振りして、一人で完結させて、一人で諦めて……)
「それに綾香ちゃん、お母さんに気を使ってたでしょ?」
「え?」
(それも、それも気づいていたの?)
綾香は、家の中でも、家族といても、いつも一人でいるような気持ちになっていた。本当の自分を知る人なんて一人もいないと思っていた。そうして、もうそれでもいいかと諦めていた。
しかし、全ては、自分で自分の耳を塞いでいただけで、外の世界を真っ直ぐに見ようとしていなかっただけで、母はちゃんと見てくれていた。
「ごめんなさいね、朝から。でもずっと綾香ちゃんに伝えたかったの。好きに生きていいのよって、あの人は不器用で照れ屋だからまだ何か言うかもしれないし、わたしはあの人に何か言うことができないけど、それでもわたしはあなたの味方よ」
「お母さん。ありがとう」
「あらあら、湿っぽいわね。乃々絵ちゃん、紅茶くださいな」
「はい、ただいま」
「綾香ちゃん、遅刻しないようにね」
「あ」
母の言葉に、ようやく正気に戻った綾香は、時計を確認した。
「もう時間じゃない!」
綾香はすぐに自室へ戻り、鞄を持って階段を駆け下りた。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい♪」
そのままの勢いで、綾香は玄関の扉を開けた。無駄にいかついそれは、何故かいつもよりも軽い気がした。
— * — * — * —
とはいうものの、綾香が父の言葉から解き放たれたとしても、いきなり変われるわけでもないのも、また事実だった。
今の自分の在り方に慣れきっているし、今まで逆らわなかったのは、それほど強い願望もなかったからだ。
ただ、これから何かやりたいことや、なりたい自分というものができたときに、縛られる必要もないということだ。
(そう思うとやっぱり気分は楽よね)
急ぐこともない。具体的なことはこれから考えればいい。何か行動する際には、今までのように前提に煩わされることもなく、自由に行動することができる。
(今すぐ何かしなきゃいけなかったり、したいことがあるわけじゃないんだから)
と、綾香は何度も何度も頷きながら心に言い聞かせるのだが……
『正直になっちゃいなさい』
母の言葉と表情が脳裏に浮かぶ。
(違うわよ! そんなんじゃない!)
久鎌井友多。
彼の名前が綾香の脳裏を過ぎった。
『好きな子でもできたの?』
(だから違うっての!)
朝食のときと同じく、脳裏に浮かぶ母に突っ込むが、彼女のイメージは消えない
久鎌井は、“アラクネ”となってしまった月野雫という少女を、言葉と行動でもって説得した。
綾香は、諦めてしまった方が楽な状況の中、それでも抗い、自らの希望を叶えた久鎌井友多に対し、今は確かに畏敬の念を抱いてはいる。
(そうよ……それだけよ)
彼女の心のつぶやきに、脳裏の母親は口を押えてクスクス笑っている。
結局、綾香は学校に着くまで、母親のイメージにからかわれ続けた。
— * — * — * —
教室に入る前には、どんな樹形図を経由したのか、綾香の思考は『久鎌井に一言文句を言ってやらないと気が済まない』というところに行き着いていた。
ならば再び屋上にでも連れ出すか、それとも体育館裏にでも呼び出すのが相場だろうか、そんなことを考えながら自分の席から教室の入り口をちらりちらり窺うが、結局ホームルームが始まっても、久鎌井は姿を現さなかった。
(それもそうか……)
昨夜はアバターの力をかなり使っていた。それに日比野の本気の攻撃を何回もまともに喰らっていたのだから、疲労感と痛みが残って学校に来るどころじゃないのかもしれない。
なら仕方ない。
綾香は納得しながらも、どうにも気持ちがイライラしてきた。
(せっかく朝はあんなにも気分が良かったのに、何故だろう?)
しかも、良くしてくれたのも、悪くしてくれたのも、原因には久鎌井友多が関わっているのだから、どうにもやるかたない。
そんな消化できない感情を抱きながら、授業は進んでいった。
そして、昼休み。
綾香が丁度弁当を食べ終えた頃、教室がざわつき始めた。
「あれ、沢渡先輩じゃない?」
「あ、ほんとだあ」
綾香と一緒にご飯を食べていた友人たちが声を上げた。
教室の入り口を見ると、そこには衣が立っていた。
衣は綾香と眼が合うと、手招きして呼んだ。
そういえば、昨日一昨日と、弓道部を無断欠席してしまった。そのことで何か言われるのかと綾香は思ったが、違っていた。
「久鎌井くんは、何処にいるか知っている?」
そう聞かれたとき、綾香の心臓が一拍だけ強く打った。
綾香も、久鎌井が昼休みに衣と会っているらしいことは聞いていた。
以前、教室前で一悶着あって妙な噂が立ったこともあった。
綾香がアバターとして久鎌井にあった翌日、チャンスがあれば話をしようと昼休みに彼の後を追って弓道場までつけたら、そこには衣の姿があり。久鎌井がその後ろで物陰に隠れていた。
どんな話をしていたかは知らないが、そのときは綾香も何も思わなかった。
まさか久鎌井が衣と付き合っているなどとは夢にも思わなかった。何か相談でもしているのか、その程度にしか考えていなかった。
ならば何故、衣が教室まで彼を尋ねてくるのだろうか。
それ考えると、また心臓が存在を主張するかのよう強く打ち、綾香は胸が痛かった。
「今日は休みですよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ仕方ないわね。ごめん、邪魔したね」
綾香は動悸を笑顔で隠し、衣に返答をした。衣は残念そうにその場を去っていった。
「あ、あの……」
綾香は声を掛けようとして、それ以上言葉を続けることができなかった。そもそも声が小さ過ぎて、衣に声が届いてすらいなかったようだが。
(わたしは、何を尋ねたかったのだろう?)
何故、こんなにもドキドキしているのだろうか?
何故、こんなにもイライラしているのだろうか?
(今のわたしには分からない)
教室内に、久鎌井と衣の関係について憶測が飛び交い、にわかに騒がしくなる。
綾香は興味のない振りをして席に着いた。
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