第4章 アンユージュアル・ホリディ ー②
その夜、久鎌井は鏡谷からもらった薬を飲んで就寝した。
そして“ペルセウス”の姿となった彼は、昨日と同じように、早めに公園へ向かった。
(あ、今日も花住さんはいるみたいだな)
公園に近づくと、不思議とそう感じた。
(ん?)
何か公園から生暖かい風が流れてくるような、少し重い空気を公園の方角から感じるというか、そんな久鎌井は説明しがたい感覚を覚えた。
(これが、アバターを感知するというヤツか……)
昨日の日比野との手合わせの結果なのだろう。自分がこのアバターの力に馴染んでいるということなのだろうと、久鎌井は思った。
久鎌井は公園に着くと、真っ直ぐに、綾香がいるはずの茂みの前まで歩いた。
「やあ、失礼するよ」
そして、一言掛けてから、そこに腰を下ろした。
しばらくの静寂の後に、久鎌井が口を開いた。
「昨日は、ありがとう」
昨夜、日比野との手合わせの最中、綾香が発した言葉。
『気張んなさいよ!』のたった一言だけ。
その一言に久鎌井の気は削がれ、日比野の攻撃から逃れる間を失った。しかし、その偶然のおかげで、彼は日比野の攻撃を受け止めざるを得なくなり、あの盾の力を使うことが可能となった。
偶然なのだろうとは思うが、久鎌井は彼女に助けられたような気がしたのだ。
「別に、あんたがあまりに情けなかったから、ついねえ」
彼女の声にはからかいの色が混じっていた。それについては久鎌井から弁解の言葉はない。苦笑いを浮かべるしかできなかった。白騎士の姿では表情はよく分からないのだが。
「でも、花住さんが俺と日比野の手合わせを見ているとは思わなかった」
綾香の、屋上や河川敷での態度を見ていれば、関わりになどなりたくなく、無視を決め込んでいるものだとばかり、久鎌井は思っていた。だからこそ、あの時の綾香の声に驚いたのだ。
「近くであんだけドタバタされたら誰だって見るわよ。あ~あ、またわたしの大切な時間を邪魔されたわ」
「ごめん」
綾香の言葉に、久鎌井は半ば反射的に謝罪を述べる。しかし、彼女の声色に、以前ほど久鎌井を責める意図は感じられなかった。
「ま、昨日はパンドラの二人もいたから仕方ないか」
「そういえば、鏡谷さんが、アバターにはギリシア神話の登場人物の名前が付けられると言っていたけど……」
黒い蜘蛛は“アラクネ”、日比野は“ナルキッソス”、そして、久鎌井は“ペルセウス”と名づけられた。
「花住さんは、どの登場人物の名前で呼ばれているの?」
久鎌井は、この質問に綾香が答えてくれるかどうか不安だった。しかし、話の流れから思い切って聞いてみた。
「ピュグマリオンよ」
「え?」
綾香はあっさりと返答した。
「ピュ、何?」
その舌を噛みそうな名前を、久鎌井は繰り返すことが出来なかった。
「知らないの?」
「ああ、今日ギリシア神話の本を借りて読んでみたけど、それは知らない」
あんな分厚くて細かい字の本を、一日で読めるはずもない。久鎌井が今日読めたのはペルセウスの項だけで、目次には眼を通したが、その名前には気がつかなかった。
「ふふん」
綾香の何処か得意げな声に続き、茂みの中から、ひょっこりとアルマジロが顔を出した。
「ピュグマリオンは彫刻家よ。現実の女に幻滅して、屋敷に閉じこもって理想の女性の彫刻を作り続けた孤高の彫刻家」
「……フィギアにはまったオタクみたいだな」
その一言に、綾香がキッと久鎌井を睨んで、そして勢い良く顔を引っ込めた。
「あ、ごめん」
「……ま、そうかもね」
そういう綾香の声はとても不満気だった。しかし、黙ることはなく、そのまま話を続けた
「ピュグマリオンは、最終的に自分の作った彫刻と結婚したの。神様が彼の情熱に負けて、彫刻に命を吹き込んでくれたのよ」
「はあ、そんな話なんだ」
「何か反応薄いわね。わたしは好きなんだけどな。この話」
「そうなんだ」
自分で理想の女性の像を作り、それを愛した男。
話を聞くだけでは、何とも退廃的というか、背徳的というか、自分好みの女性を作り上げてしまうというのは、久鎌井にはあまりいい話とは言えないような気がした。
それを伝えると、彼女はこう言った。
「だろうね。常識的に見ればそうだし、ピュグマリオンも周りの人間にはいろいろ言われたんじゃない? でも、それでも自分の理想とか、思いとかを貫いたその姿がいいのよ。物語ではそんな彼を、神は祝福したわけよ」
「なるほどねえ、そういう見方もあるわけか」
そう言われれば、納得できる部分はあると、久鎌井も頷いた。
他人にどう言われても、自分の信じる道を進む男の話だとしたならば、惹かれるのも分かる。それは決して簡単なことではない。
「ピュグマリオンのコードネームをもらった花住さんの能力って、どんななんだ?」
久鎌井の白騎士には、昨日、日比野の攻撃を防いだ“盾”の力と、姿を消すことができる能力がある。もしも白騎士がほんとうに“ペルセウス”としての力を持っているとしたら他にも能力があるかもしれないが、今彼が使えるのはその二つだった。
綾香の“ピュグマリオン”の能力は果たして何なのか。
「あんたは、わたしの能力を見てるはずだけど?」
「え? 俺が見ている?」
「そうよ、さて、何でしょう?」
久鎌井は綾香のアバターとしての姿を思い出してみた。
アルマジロだ。その姿と関係があるのだろうか?
久鎌井はアルマジロという生き物に詳しくない。背中の甲羅が特徴的な哺乳類で、体を丸めて、その甲羅で身を守る。せいぜいそれぐらいの知識しかなかった。
初めて彼女に会ったときは、そんなアルマジロが、こんな街の公園で、リゾート気分でくつろいでいたのだから驚いた。
(……そうだ。あのとき、彼女は、アルマジロの体長にあったミニチュアの長椅子でくつろいでいた。サングラスも、トロピカルドリンクも、同じくミニチュアサイズだった。)
それは明らかに不自然だった。
ということは、それが、彼女の能力なのだろうか?
そして、彼女のコードネームである“ピュグマリオン”が彫刻家であるというのなら。
「物を、作り出す能力か?」
「む、なかなかに聡いわねえ」
彼女の言葉を聞く限り、間違いではないようだ。
久鎌井は、照れて鼻の頭を掻いたのだが、
「つまらないわ」
その彼女の言葉に、久鎌井はぐっと唸った。
「でも、まあ、概ね当たりよ。わたしは、物の形を変えることができるの。椅子も、サングラスも、ここにある葉っぱやら枝やら草やらの形を変えて作り出すことができる。だから、ここで自分の好きな空間を作り出して楽しんでいるわけよ」
「なるほどね」
ピュグマリオンは彫刻によって理想の女性を作り上げた。綾香は、理想の環境を作り上げている。
久鎌井が頷いていると、公園の入り口に人影が見えた。
そのうちの一人はタバコを銜えていた。そのシルエットからも、間違いなく鏡谷だ。
「それじゃあ、二人が来たから、俺は失礼するよ」
「………」
綾香からの返事は待たずに久鎌井は立ち上がり、昨日話をしていたベンチまで移動した。
「待たせてしまったかな?」
久鎌井の姿を確認した鏡谷が声を掛ける。
「いえ――あれ?」
ベンチ近くにある外灯に照らされた二人の姿を見て、久鎌井は首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
鏡谷はタバコを消すと、久鎌井に尋ねた。
「いえ、日比野さんから、アバターの気配がしないので……どうしてなのかと」
「ほう、君はアバターの気配を感じ取れるようになったのか?」
「ええ、まだ何となくですけど、でも、今は一つしか気配を感じられない。花住さんがいるから、それは彼女のもののはずなんですけど」
「ふむ、そうだな。君以外のアバターは、そこにいる彼女だけだ」
そう言って鏡谷は久鎌井の隣の空間を指差した。
彼が振り返ると、そこにアルマジロが立っていた。
「花住さん!? どうしたの!?」
「昨日みたいに騒がれたら、わたしだけの時間も何もあったもんじゃないからね」
そう言う彼女は手には、何故かピコピコ音が鳴るおもちゃのハンマーが握られていた。“ピュグマリオン”としての能力で作られたものであることは間違いないのだろうが、それを手にしている理由は久鎌井には分からなった。
「それは、すまない。迷惑をかけてしまったようだな。しかし、それは協力してくれるということか?」
「別に、協力するつもりはないけど、茂みの中にいたら何かわたしだけ除け者みたいじゃない」
「でも、それは花住さんが自分で望んでいることじゃないのかい?」
「それはそうだけど……あんたたち三人がここで話しているのに、わたしだけ一人でいたら、何か気分悪いのよ!」
そう言い放ちながら、綾香はピコピコハンマーで久鎌井を叩くが、身長差で位置は彼の太もも辺りだ。特に痛みもなかった。
「なるほどな、分かった。とりあえず話を戻そうか」
鏡谷は小さく苦笑しながらそう言った。
「久鎌井くん。君は、日比野からアバターの気配がないことを疑問に思っているんだったね?」
「はい」
久鎌井が素直に頷く。
「それはそうだろう。彼は今、普通の人間だ。アバターを顕現させていないだろう?」
「そう言われれば、そうですね」
「彼が力を顕現させれば、もう一つ反応を感知できるはずさ。さて、立ち話もなんだ」
鏡谷の促しに応じて、久鎌井はベンチに腰かけた。鏡谷もそれに続く。
そして綾香も、ベンチをよじ登って、久鎌井の隣に腰掛けた。
「もしも、所持者というだけで感知することができたならば、すでに“アラクネ”の所持者も見つかっているだろう?」
「そう言われてみれば、そうですね」
ふと、会話が途切れた。
「いいかい?」
鏡谷が久鎌井に尋ねた。彼には何のことか一瞬分からなかったが、よく見れば指にタバコを挟んでいた。
「ええ、構いませんよ」
「ありがとう」
彼女はタバコを銜えると、マッチで静かに火を点けた。
「何じっと見てるのよ?」
綾香が久鎌井の肩をピコピコハンマーで叩いた。
「え?」
「どうかしたかい、久鎌井くん」
「あ」
そう尋ねられて初めて、久鎌井は自分が鏡谷に見とれていたことに気がついた。
彼女のハスキーな声。そして落ち着いた物腰。説明している時の丁寧で優しげな口調。少し物憂げな表情。ごく稀に見せる微かな笑い。そして今の横顔。
綺麗だなと。久鎌井は何気なくそう思ってしまい、目を離せないでいた。
「まったく、これだから思春期丸出しの男は……」
「ちが、な、なに言ってんだよ花住さん! 俺はただ――」
「ただ?」
「え……ま、まだ聞きたいことがあっただけだ!」
取り繕い度百パーセントの久鎌井の態度。
「聞きたいことがあったら相手をじっと見るんだ。これだからスケベ心丸出しの男は……」
綾香からすればからかいやすさ百パーセントの態度であった。
「だから違うんだって! えっと、だから鏡谷さん?」
「何だい?」
そう聞き返す鏡谷の様子は、ただただ冷静かつ穏やかであった。
「何で日比野さんはアバターじゃないのかなって、どうして生身なのかなって……」
「ああ、説明しよう。アバターであっても、ダメージを受ければ、それは所持者のダメージとなる。君も昨日、日比野にやられた場所が痛むんじゃないかい?」
「はい、青痣になっていました」
綾香のアバターに噛まれたところはミミズ腫れのようになっている。
「そう、アバターであれば安全というわけじゃない。それにアバターは、言ってみれば充電した電化製品みたいなものだ。それは充電が切れてしまえば動かなくなってしまう。昨日の日比野との戦いをずっと続けていれば、君のアバターは消えていただろう。消えたといっても死とは別物だがね。その日、再びアバターの形を成すことはないし、翌日にすぐアバターを顕現させることはできないだろう。
しかし、同調状態であれば、その問題はなくなる。」
「はあ」
「それに、同調状態の方が、その力は大きいのだよ。なあ、綾香くん?」
「え? 花住さんは、もう同調状態なんですか?」
「……まあね」
綾香は、少し面倒臭そうに頷いた。
「もちろん、今が同調状態というわけではない。同調状態で力が発揮できるまで力は覚醒している。だからこそ、こうしていつでも好きなときに夢遊状態になることができるのだよ。彼女は、アバターの力を非常にうまく制御している好例だ。いろいろ聞くといいさ」
「面倒だから、いやよ」
綾香は今まで通りそう言うが、さっきまでいろいろと久鎌井に話をしていた。徐々に自分のことを認めてきてくれているのだろうと、久鎌井は思ったが、そのことには触れないでおいた。そんなことを口にすれば、恐らく彼女は機嫌を悪くしてしまうだろうから。
それよりも……
「同調状態……」
久鎌井は想像していた。
昨日の日比野は、腕が植物の蔦や茎が絡まってできたような別物に変わっていた。
綾香の場合はどうなのだろう?
ふと、久鎌井の視線が綾香を捉える。
彼女のアバターの外見はアルマジロだ。
それと同調し、体の一部にアバターを顕現するのだとしたら……
「怪人アルマジロン……」
スパーーーーーン!
久鎌井の呟きと同時に、綾香が何かで彼の頭を強くはたいた。
「今、変なもの想像したでしょ」
いつの間にかピコピコハンマーをハリセンに変えたアルマジロが、小さいながらも底暗い目で白騎士を睨んでいた。
「いや、だって……」
彼女のアバターの一部を、普段の彼女に重ねようとしたら、出来上がる想像はアルマジロ人間。綾香の顔がアルマジロに変わった姿だ。
「んな分けないでしょうが! 何処の特撮の怪人よ!」
「じゃあ、顔だけ花住さんで、体がアルマジロ……」
「このハリセン、トンカチにしてやろうかしら……」
「わ、悪かった。悪かったよ、もう想像しないから!」
さすがにトンカチで叩かれたら死んでしまう。いや、今はアバターになっているから大丈夫なのかもしれないが、できれば遠慮したい。
「じゃあ、どんな感じに?」
久鎌井は綾香に尋ねた。
「……手首から先が、薄手の黒い手袋をつけたみたいになるのよ。ほら」
彼女はそういって、アルマジロの手を俺に見せる。
確かに、今の彼女の手は黒っぽい表皮に覆われたようになっている。
「これが顕現するわけだ」
「そう、それで触ったものの形を変えることができるのよ……まったく、今度変な想像したらトンカチでいくからね」
「分かりました」
彼女の眼に本気が宿っていることを悟り、久鎌井はその言葉を真摯に受け止めた。
「随分と仲良くなったんだな」
「何処がよ!」
綾香の叫びを軽く受け流し、鏡谷さんは腕時計を見た。
「二時だな……どうだ?」
そう言って、鏡谷が日比野の顔を窺う
「いや、反応はない」
「二時に、何か?」
「“アラクネ”の過去の事件は午前二時くらいに起きている。また、目撃例も、二時付近だ」
「そうなんですか?」
「ああ、君には“アラクネ”の事件について話をしていなかったね。君はどれくらい知っているのかな?」
「あの、女子高生が変な殺され方した事件ですよね? 人間の仕業には思えないような傷跡が残っているって」
久鎌井は衣から聞いた内容を思い出して答えた。
「それ以外はあまり……」
「そうか、その事件は、本当はもっと奇妙な内容なのだ。ニュースではその傷にしか触れていない。他の事については、実は嘘の内容を流してもらっている」
「嘘?」
「ああ、ニュースでは十一時ごろ、たまたま外を歩いていた女子高生が何者かに襲われ、殺されたことになっている。そしてその傷は大型肉食獣がつけたような傷だった。そう報じている。しかし、それは組織が上から報道規制をかけ、混乱を巻き起こさないように情報を変えていた。それを聞いた人間が、夜は最近物騒だし、出歩かないようにしようと思う程度の情報にね。
しかし、事実はこうだ。
午前二時ごろ、自室で、その女子高生は殺害された。窓には鍵がかかり、部屋のドアには鍵はないものの、もちろん玄関にも鍵は掛けられていた。家の人間以外は入れないような状況で、肩から腰にかけて切り裂かれた、というか抉られた死体で見つかった」
「はあ」
「状況からして、普通の人間には無理だ。だからすぐに我々に話が来たよ。パンドラは警察にも通じている。そして調査が行われたが、事件後アバターは姿をみせなかった。
我々は事件にあった少女――
結局、アバターの所持者の見当もつかず、続いて二件目の事件が起きた。その被害者も彼女と同じ青草高校に通う同級生――
やはり、交友関係で、高島瞳と共通の友人等を疑ったが、分からなかった」
「高島さんと、浅野さん……」
久鎌井は、被害者の名前を繰り返した。
「君、知り合いか?」
「いえ、ただ、中学時代に同じ名字の人がいたので……」
高島瞳。
浅野洋子。
久鎌井は再度、心の中で二人の名前を繰り返した。
彼はあまりニュースを見ない。二つの事件も衣から聞くまでは知らなかったし、彼女の口からも被害者の名前はでなかった。彼女も忘れていたのかもしれない。
でも、その二人の名前を、久鎌井は知っていた。
「中学か……そうか、中学時代は視野に入れていなかった。その可能性もあるな。よし、明日から調べようか」
「え!?」
「どうかしたのかい?」
久鎌井があげた声に、鏡谷は怪訝な表情を見せた。
「いや、別に何もないですよ」
そういう久鎌井の頭の中には、もう一人の少女の名前が浮かんでいた。
(そんなはずはないさ……)
久鎌井は心の中でそうつぶやく。
彼女が犯人なわけがない。彼女がアバターの所持者なわけがない。
それから何が起こるわけではなく、午後三時頃には解散となった。それまでの間、久鎌井の口数は明らかに減っていた。
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