第1章 ガール・ミーツ・ナイト ー②
五月八日 月曜日
………ギギ
掲げられた弓が、ゆっくりと左右に引き分けられていく。
弓を持つ者の体の芯がぶれることはなく、左右の力は均等。
床と水平な矢が口元の高さまで下がるとぴたりと止まる。
まるで時間が静止したかのようだ。
しかし、体の中心から力は満ちて……軽やかに弾けた。
シパン――パン
弦音と、矢が的を貫いた音、二つの連続した音が、朝の清涼な空気を鋭く震わせた。
ここは
弓道部の朝練習は基本的に自由参加で、何時から開始という決まりもないが、衣は毎日七時半からおよそ一時間、練習をしている。
今日もいつもと同じように練習を行っていた。
現在、時刻は七時四十五分。
「相変わらず上手いねえ」
今から練習を始めようとしていた同学年の女子が、衣に声を掛けてきた。
「ん、まあねえ」
衣は謙遜することもなく笑顔とともに応えた。
その反応は嫌味ではなく、いままで一生懸命練習に励み、ここまでの技術を得たという自負があるからこそだ。
衣の普段の弓の的中率は十本射って八本ほどか、今日も同じ調子だ。
(そう、いつも通り)
昨晩、彼女が不思議な体験をしたことなど誰も知らない。
射形にも曇りはなく、誰も彼女を見ていつもと違うと感じるところなどない。
しかし、衣はずっと、あの白い騎士のことを考えていた。
深夜、白い騎士が街に現れる。
街で行われている悪事を嗅ぎ付けては、悪党どもを蹴散らして何も言わずに消えていく。
そんな噂が流れ出したのは新学期に入ったくらいからだった。
衣が初めてその話を耳にしたとき、何か特撮ヒーロー番組みたいな話だな程度にしか思っていなかった。
要するに、信じてもいなかったわけだが――
(実際に見ちゃったらねえ……)
幽霊とか見える人はこんな気分なのだろうかと思う。
信じるしかない。
認めるしかない。
しかし、ならばあれは一体何なのかという疑問が湧き上がってくる。
白騎士は甲冑コレクターの人が鎧を着込んで英雄を気取っているというわけではなかった。噂通り鎧の中に人は存在せず、ただ空洞のみが彼女を見返していた。
噂と違ったのは話し掛けてきたところぐらいか。
(やっぱり幽霊……)
しかし、そんな一言では納得できなかった。
幽霊といえば透けているだとか、足がないだとか、そんなあやふやで無駄な定義しか思いつかないが、衣にはアレが幽霊とは思えなかった。
それとも物が動いているという点ではポルターガイストという心霊現象か、あるいは長い年月減ることで物に命が宿るという付喪神なのだろうか。
(何か、そういうのじゃない……)
白騎士が発した声、そして最後に見せた照れているようなあの仕草が、ある一人の少年の姿が重なった。
(やっぱり、あの子に似ている……)
アレが一体何なのか、衣には分からない。
だが、衣の頭に思い浮かんだ少年は、白騎士と何か関係があるのだろうか?
一度気になり出してしまったらもう、その思考を止めることは出来なかった。
何かが、彼女心の中で沸き立つ。
ソワソワするような、浮き足立ったような――とにかく、気になるという感覚。
それは好奇心だった。
そして、彼女はどうにもソレを抑えられない
時刻は八時。
「ねえ」
衣は制服に着替えた後、今から練習を始めようとしている二年の女子に尋ねた。
「え?」
「あのさ、四月に退部した久鎌井くん。彼、何組か分かる?」
「あ、えっと、綾ちゃんと一緒だから、C組だと思います。どうかしたんですか?」
「んー、そういえば退部の理由をちゃんと聞いてなかったなと思って、それだけ」
「はあ」
不思議そうな顔しながらも答えてくれた後輩に礼を言うと、衣は弓道場を足早に出て行った。
― * ― * ― * —
C組の教室が、にわかに色めき立つ。
「ねえねえ、ちょっとちょっと、廊下に沢渡先輩がいるじゃない!?」
仲良し少女四人組のうちの一人が、廊下を見やって言った。
「うん、さっきちらっと教室覘いていたよ」
とりわけ冷静な少女が答えた。
「うそ! あんた! 何で言わないの!?」
先とは別の少女が騒がしい声を上げた。
「言う必要ないじゃない」
「か、確認してみます!
…………ほ、ほんとだー! どうしようぅぅぅ!?」
おとなしそうな少女が廊下を覗くと、確かに沢渡衣が壁に背を預けて立っていた。
「どうしよって、別に何もしなくていいよ。でもやっぱ綺麗だねー」
「いや、衣先輩はかっこいいのよ!」
「違うわ、あの人は実はきっとかわいいのよ!! 二人の時なんてデレデレなのよ!!」
「「「きゃーーーー!!!!」」」
「ふーん、でも何の用だろう……誰か待ってるのかな」
「え、ついに彼女が!?」
「普通彼氏でしょ」
「か~れ~し~? あたし認めないわよ」
「綾ちゃんなんかとの組み合わせがいいよね~」
「こらこら」
「くっそー、いつか転んだ振りして抱きついてやるわ」
「痴漢?」
「失敬な痴女よ!」
「わたしはお姉さまって呼びたい!」
「わたしは、お弁当を……作ってあげたい」
「あなたは普通に健気ね……って、普通じゃないか」
騒がしい二人に、おとなしい一人、加えて冷静な一人。
主に騒がしいのはその四人の少女だが、その他の生徒も、普段はいない上級生の姿に、視線を奪われるものも少なくはない。
始業時間も近づき、教室は喧騒に包まれていく。
― * ― * ― * —
(そうだ、C組はあの子たちがいるんだった)
教室から聞こえてくる騒がしい声を、衣は努めて気にしないようにしていた。
彼女のファンらしく、時折彼女の姿を見つけては黄色い声を上げている少女四人組については、衣自身も名前は知らないもののなんとなく認識していた。
自分のことを褒めてくれる存在がうれしくないわけではないのだが、彼女らの騒ぎ様は恥ずかしくて仕方がない。とにかく衣はポーカーフェイスを貫きつつ、登校してくる生徒の中から、一人の少年の姿を探していた。
天ヶ原高校は学年で階が違うため、上級生が下級生の階の前にいるのは不自然なことだ。
だから、上級生の姿を見た生徒は一瞬驚いた表情か、もしくは怪訝な表情を見せていた。
どうしてこんなところに三年生がいるんだ? と。
とはいえ、変質者が立っているわけではないのだから、立ち止まることもなくそのまま去っていく。
もちろん、まったく気にも留めずに通り過ぎていく生徒もいた。
たまに通る弓道部員は、見知った先輩である彼女に挨拶をしてきた。
それ以外の反応を見せる生徒は今のところいない。
(彼は――
久鎌井友多。
二年の男子生徒。昨年度の三月まで弓道部に所属していた。しかし、家庭の都合で二年に進級すると同時に退部届けを出した。
目立たない少年で、弓道の腕前も普通。彼に対する衣の印象といえば、真面目で大人しい子という程度。
特別に親しくしていた部員もなく、決して嫌われていたわけではないのだが、あまり自分から進んで親しくしようとしていなかったように、衣の目には映っていた。
容姿も別段いいわけではない。背も一七〇センチほど。髪の手入れもおしゃれした様子はなく、清潔感がある程度にまとめられていただけだ。
大人しめな普通の男子生徒。それ以上表現しようのない少年。
それが衣の、久鎌井友多に対する印象だった。
一方、昨夜の不思議な存在。
白い鎧。白い騎士。
幽霊かポルターガイストかはたまた付喪神か……
何にしろ人知の外にあるような存在。
(だけど……)
アレがまとっていた人間臭い雰囲気、仕草。
最初こそ得体の知れなさに恐怖を感じなくはなかった。しかし、すぐにそれは消え、不思議と衣の心を落ち着かせてくれた。
そんな幻想的な存在。普通という言葉とまったく逆に位置する存在。
ソレが、最後の最後に、一人の少年と結びついた。
去り際の仕草、聞き覚えのある声、二つが混ざり合い、衣の記憶の中で一人の少年の形になった。
それがごく普通の男子生徒であるところの久鎌井友多だったのだ。
(好奇心が沸いてこないわけがないじゃない!)
彼がそのまま白騎士の正体だ! とまでは言えない。何せ鎧の中は空洞だったのだから。しかし、彼は何かしら白騎士と関係があるのかもしれないと、衣は思う。
とはいえ、自分の気のせいという可能性も否定できない。
勘違いかもしれない。
だから、衣は今こうして彼を待っている。
(単刀直入に尋ねて、あっさりと話してくれるかしら?)
それに、もしも勘違いだったら変人扱いされてしまいかねない。
(だから、まずは反応を見るのよ)
事件は昨日だ。もしも彼が白騎士に関係あるのならば、自分の顔を見たときに何らかの反応を示すかもしれない。
そう考え、衣は先程から次々に目の前を通り過ぎていく生徒たちの反応を見ながら、ただ待ち続けていた。
― * ― * ― * —
時刻は八時半。
廊下にも、教室にも生徒たちが溢れている。
がやがやと話し声、ぱたぱたと足音。
もうすぐで、高校生の拘束される日常が始まる。その前の足掻きの雑音に満たされた空間の中で違和感を覚え、衣は首を巡らせた。
皆がせわしなく動いている中、階段付近で立ち止まっている少年が一人いた。
久鎌井友多だった。
彼も他の生徒たちと同じように少し驚いた表情で衣を見て、他の生徒とは違い、その場で立ち止まっていた。
そして、衣と眼が合うと、久鎌井友多はその表情を隠すかのように軽く会釈をし、そのまま教室に入ろうとした。
(やっぱり!)
反応が明らかにいままで生徒たちとは違う。その態度は、衣の目には動揺しているように映った。
(つまり、彼はわたしの顔を見て動揺する何かが間違いなくあるんだ!)
その理由が、きっと昨夜のことなんだと、衣は思う。しかし、そうでない可能性もやはり捨てきれないだろう。
もう一つ、彼と白騎士を結びつける確証が欲しかった。
「久鎌井くん」
だから、衣は彼を呼び止めた。
「はい?」
少年は声に反応してゆっくりと振り返った。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
その声は、昨日の白騎士が発したものと酷似している気がした。
そして、丁寧に挨拶を返すその様子は、先程の動揺していた様子と比較すると、どうしても取り繕っているようにしか見えなかった。とはいえ、彼のことを疑っている今の衣には、彼のすべての行動が嘘のように見えてしまう。
だから、彼を問いただすにあたって、もう一つ確信の手ごたえが欲しかった。
カギとなるのは、昨夜、最後に見せた白騎士のあの仕草だ。
(あの動作をもう一度……)
衣の中の記憶と結びついたあの動作を、もう一度目の前で引き出すことが出来れば……
「何か用ですか?」
声を掛けておいて考え込んでしまっていた上級生を、彼は怪訝な表情で見返してきた。
(違う! わたしが見たいのはこの表情じゃない……よし!)
衣は意を決して、彼の顔をじっと見つめた。
「え、あ? 顔に何かついてますか?」
そう尋ねてくる久鎌井の顔が少しずつ赤くなってきた。
(よし、あともう一押しかも)。
衣は、思い切って顔を近づけてみた。
「!」
彼の表情が驚きに変わった。
しかし、それは彼女が望んだ表情ではなかった。
「え、っと、あの、沢渡先輩、どうしたんですか!?」
「んー、ごめん。ちょっとね」
さすがにこれ以上のことはできない。
(ちょっと、失敗したかな……)
後悔を表情に出さないようにしながら、衣は久鎌井から少し離れた。
衣がふと周囲を見渡すと、周囲にいた生徒全員の視線がこちらに集まっていた。
「うわ!」
衣は思わず声をあげてしまった。これでは自分が恥ずかしい。
「ああ、ごめん。少し聞きたいことがあってね」
とりあえず衣は早口でそう取り繕った。
あわてた衣の様子に、久鎌井もようやく周囲の視線に気づいた。
そして、照れ隠しの笑顔を浮かべると、鼻の頭を掻いた。
(これだ!)
この仕草が、衣が引き出したかったものだ。やはり、昨夜の白騎士の仕草とそっくりだ。
「そうね、今日のお昼、弓道場に来てくれるかな」
久鎌井が白騎士と関係しているという自分なりの確信を得た彼女は、もう周囲の反応など気にせずに、そう誘った。
「え、話ですか?」
「うん、退部の理由ちゃんと聞いてなかったからね。よろしく」
とりあえずは適当な理由を言い残して、衣は自分の教室に向かった。
何を期待していたのか、C組のクラス中がずっこける騒々しい音が聞こえたが、衣は気にせずに意気揚々と階段を上がっていった。
― * ― * ― * —
昼休み。
沢渡衣は弓道場で、一人で弁当をつついていた。
そこに、久鎌井友多の姿はない。
時間は過ぎていく。
しかし、久鎌井が現れる気配はなく、衣は坦々と弁当を食べ進めていた。
そして、そろそろ教室へ戻らなければならない時間となったが、結局、彼は来なかった。
(まあ、想定の範囲内よね)
やましいことがあるのなら、こんな約束を守りたくはないだろう。
ここに現れないということは、彼が、自分の聞きたいことが退部の理由なんかではなく、別件だということに感づいている証拠だ。だからより確信を強くするだけのことだと、衣は思う。しかし……
(元所属していた部活の副部長の呼び出しを無視するなんていい度胸よね)
まったく腹が立たないわけではなかった。
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