現代ギリシア神話青春譚

マサムネ

第1章 ガール・ミーツ・ナイト

第1章 ガール・ミーツ・ナイト ー①

五月七日  日曜日



 一人の少女が夜道を駆けていた。

 彼女の名前は沢渡さわたりころも。市内の高校に通う三年生。部活は弓道部に所属し副部長を任されてはいる。文武両道の優秀な人物ではあるが、ごく普通の少女だ。

 少女の走り方は夜のジョギングといった様子ではない。閑静な住宅街を、全身全霊、距離も時間も考えず、一心不乱に走っている。


「はぁ、はぁ、はぁ――」


 彼女は、何かに追われていた。

 決して誰かに恨みを買うような人柄ではない。

 友人からは男っぽいと評されることが多く、自分が正しいと思ったことは行動に起こし、歯に衣着せぬ物言いをすることもあるため、時には他人と衝突することもある。しかし、さっぱりとしており根に持つことはなく、男女分け隔てなく好かれるようなタイプだ。


 では、彼女はいったい何に追われているのか?


 衣も、普段はこんな夜中に出歩くことは少ない。たまたま使っていた蛍光ペンのインクが切れ、今日のうちに買っておこうと近くのコンビニまで来た帰りだった。歩いても五分程度の距離。ただ、月明かりもきれいだからと自転車を使わないで歩いて行こうと考えたのが運の尽きだった。


「はあ、はぁ………、――くっ、はあ……」


 肺はより多くの空気を求め、心臓はもう無理だと警鐘を響かせ、ふくらはぎはキリキリと悲鳴を上げている。

 曲がれるところを曲がって走り続けたため、家からも遠ざかってしまった。

 彼女の限界が、近い。


「バウッ!」


 何かが吠えた。


「きゃ!」

 たったそれだけで全身が竦み、衣は無様に転倒してしまった。

 勢いよく迫り来る影が二つ。


 その姿は紛れもなく、犬だった。


「ひっ!」

 何故かも分からないし、いつからかも分からないが、衣は犬との相性が悪い。

 道を歩けば吠えられる。友人が隣にいても何故か衣ばかりを吠えたてる。散歩中の犬も、主人を引っ張ってまで彼女に近寄ろうとしてくる。子供の頃には追いかけられた記憶もあった。


 それはそれは恐ろしい印象を伴って彼女の脳裏に記憶されているが、その事件をきっかけに嫌いになったのか、それとも嫌いな態度が犬に追われる原因となっているのかは定かではない。


 嫌いな理由すら分からないのに、物心ついた頃には犬に対する恐怖心が、彼女の体と記憶に染み付いていた。


(だれか、だれか、だれかだれかだれか――)


 迫り来る猛獣(彼女から見れば犬はみんなそうだ)を前に体が強張ってしまい、声をあげることすらできない。


(助けて!)

 唯一できたことは眼をつぶり心の中で叫ぶことだけ。


 そのとき――


ドン!


 衝突音。次いで「キャイン!」という獣の悲鳴と、走り去っていく足音が続いた。

 衣には何が起こったのか分からなかった。

 ただ、しばらくしても何も起こらず、足音も鳴き声も息遣いも、それ以降は聞こえてこなくなった。


 危機は通り過ぎたのだろうか?

 状況を確認するために、衣がゆっくりと眼を開けるとそこには――


 白くて大きな甲冑が、塗壁のように立っていた。


 それは明らかに不自然な存在だった。現代にこの格好の人間がいることは違和感どころではなく異常だ。その姿に恐怖を抱いてもおかしくはない。

 しかし、街灯に照らされてきらきらと輝いて見えるその姿は幻想感を帯び、衣はただ呆然と見つめるしかできなかった。


「白騎士……」


 しばらくして、ようやく彼女の口から出たのはその一言だった。

 最近、こんな噂が聞かれる。

 夜十時を過ぎた頃、白騎士が街に現れる。

 白騎士は弱きを助け、悪しきを成敗する――らしい

 酔っ払いに絡まれた女性や、不良少年に襲われる中年。『わたしの友達の友達のお父さんの知り合いが白騎士に助けられたよ』という話を、衣も聞いたことがあった。

 しかし、その噂話の驚くべきところは、甲冑は誰かが着ているのではなく、中が空洞で鎧だけが動いているというところだった。


――スッ


 白騎士が、衣に向かって手を差し出した。


「え、あ」

 白騎士の行動の真意が分からず、犬に追いかけられていたさっきまでとは違う、得体の知れないものに対する恐怖心で、衣の身が一瞬、竦んだ。しかし、よく見ると白騎士の手にはコンビニのビニール袋が提げられていて、それは衣がいつの間にか放り投げていた蛍光ペンとついでに買った飲み物の入った袋だった。


「あ、ありがとう」

 衣は反射的に出たお礼の言葉を口にした。汗と涙と涎で濡れた顔を袖で拭き、ビニール袋を受け取るために立ち上がろうとしたところである重大なことに気がついた。


「え? ……あれ?」

 立ち上がれなかった。

「腰が、抜けちゃってる……」

 なんとか立ち上がろうともがくも、上半身が力むだけでどうにもならなかった。

 白騎士は静かに歩み寄り、何の予告もなく衣の足と背中に手を差し入れてそのまま抱え上げた。


「わ、わわわわわ」

 いわゆるお姫様抱っこをされている状態となり、衣は慌てた。

「きゃ、ちょ……お、降ろして!」

 なんとなく恐怖心は薄らいでいたが、お姫様抱っこをされることなど初めてで、衣は恥ずかしさから思わず声をあげた。


 しかし、衣がじたばた足掻いても、白騎士に降ろす気はないようで、まったく動じずに堂々と立っていた。

 そして、その顔――顔と言って正しいのかは分からないが、頭全体を覆う兜の中央は、紛れもなく衣の顔を見つめていた。


 そのとき、彼女は噂の真実を眼にした。


 フルフェイスの兜にあいた穴の中、そこには何も存在しなかった。


 幽霊。


 彼女の脳裏に不吉な言葉が浮かぶと同時に、恐怖が再び浮上しかけたそのとき、白騎士が不意にそっぽを向いた。

 その行動は、白騎士の顔から眼を逸らせなくなっていた衣の視線に対し、白騎士が照れて、誤魔化すために顔をそむけたように、彼女には見えた。


 それほどに妙な人間味が溢れていたのだ。


 それに気づくと、衣の中で、この得体の知れないものに対して抱きかけていた恐怖心が一気に薄らいでいった。


「家は?」

 突然、男の声が聞こえた。

「え?」

 衣は耳を疑った。思わず周囲を見渡すが、自分たち以外に人影はない。

「家はどっち?」

 再び、男の声で尋ねられた。

 その声は、間違いなく目の前の白騎士から発せられている。

 衣は目の前の存在が言葉を発することにまず驚き、さらにその声が十代程の若い男の声であることに違和感を覚えた。

 目の前の不可思議な存在には見事に不釣合いなのだ。

 それに、衣はその声に何か引っ掛かるものを感じていた。


「え、あ、ああ……あっち」

 衣は心の中で首を傾げながらも、とりあえず指差して答えた。しかし、頭の中では先ほど聞こえた声の分析をしていた。


 この声、何処かで聞いたことがあるような気がする。


 誰の声かは分からないが、どこかで聞いたような……。

 しかし、高校に通っていれば、若い男の声を聞く機会などたくさんある。何せ生徒の半分は男だ。

 テレビからだって、いろんな芸能人の声が耳に届く。

 誰かの声が、何処かで聞いたことあるなど、よくあることかもしれない。

 だから、白騎士の声をどこかで聞いたことがあるなど、ただの気のせいかもしれない。


 気が付けば、白騎士はいつのまにか衣の家の付近まで来ていた。

「家、そこだから、もう降ろして」

 衣がそう申し出ると、白騎士は指示に従ってゆっくりと彼女を降ろした。

「あ、ありがとう」

 衣は、今度はビニール袋を受け取ったときとは違い、ちゃんと心を込めて礼を言った。

 それに対し、白騎士はお話の中の貴族がするようなお辞儀で返した。

 ゴツゴツとした鎧とその滑らかなお辞儀はなんともミスマッチで、緊張も徐々に薄らいできていた衣は思わず笑ってしまった。


 すると、白騎士は頭を覆うフルフェイスの兜の中心、人間の顔でいえば鼻先がある位置を人差し指で描く動作をした。

 その仕草は、まるで照れているのを誤魔化すときの仕草のようであった。


「え?」

 衣は、その動作に見覚えがあった。

 そして、先程の白騎士の声が記憶の中の何かと結びつく。


「ち、ちょっと待って!」

 衣が慌てて呼び止めるが、白騎士は振り返り、立ち止まることなく去っていってしまった。

「ま、待って」

 衣は追いかけようとするが、間の悪いことに母親が家の中から顔を出した。

「衣? 遅かったじゃない。心配したわよ」

「え、あ、うん」

 衣は伸ばしかけた手を下ろし、駆け出そうとした足を止めた。

「誰かと話してた?」

「ま、まあ……たまたまそこで後輩と会ってさ」

「そう、はやく中に入りなさい。門、閉めちゃうわよ」

「あ、うん」

 母親の言葉に頷いて、衣は仕方なく家の中に入った。


(そう、後輩……)


 玄関の向こうの夜の暗闇。そこにはすでに白騎士の姿はなかった。その代わりに、衣の脳裏にはある後輩の少年の姿が思い描かれていた。


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