第9章 ビー・レディ・トゥ・ダイ ー①

五月二〇日  土曜日



「くくくくくくっ」

 スマホ越しに聞こえてくるのは神経を逆撫でする笑い声。


「何か?」

「いやぁ、あの久鎌井という少年は興味深い。なかなかに強い力を秘めているようだ」

「そうですか……」

 鏡谷は、自分の感情を抑えるので精一杯だった。

「ふむ、昨日は夢遊状態だったが、同調状態では今の日比野とも同等の力を秘めているかもしれない」

「……日比野が、負ける可能性があると?」

 久鎌井の“アイギスの盾”の効果は確かに驚異的である。それは鏡谷にも分かった。何しろ日比野の攻撃をいとも簡単に退け、全く堪えた様子はないのだから。

 加えて、日比野の腕を切断した黒騎士の持つ鉤爪、その切れ味は鋭く、触れるもの全てを容易く切り裂く。

「まあ、それはそれでいいかもな。そうしたらあの少年をパンドラに引き入れて育てていけばいい」


「勇を切り捨てると言うのですか!」

 鏡谷の声が思わず大きくなる。


「かっかっかっかっかっ、そういきり立つな。冗談だよ。お前の大事な義弟を取ったりはせんよ。実の娘にそんな酷いことをするわけがなかろう?」

 その言葉に、鏡谷は心底胸糞が悪くなる。

 電話の向こうの男――鏡谷英昭は、間違いなく鏡谷望の肉親だった。しかし、アバターの所持者ではない娘に何の興味も示さない。ある事件をきっかけに引き取ることになった日比野の世話役としての役割以外、娘に何も期待していなかった。もしも日比野がいなくなれば、きっと彼女はお払い箱になるだろう。


「ただ、そういった可能性も出てくるかもしれんということだ」

 鏡谷の胸に、後悔の念が沸き上がる。

 自分はどうしてこんな男の指示に従っているのか。全ては日比野のためだと思ってやってきたが、日比野だってもうこの男のために戦う戦闘人形でしかなかった。

(それに、今は久鎌井くんや綾香くんを、こんな下らない男の陰謀に巻き込んでしまっている)

 もう、こんなことは終わりにした方がいい。

 鏡谷は、助手席で寝息を立てている日比野の表情を見た。

 意外と童顔に見えるこの寝顔も、安らぎも、所詮仮初めでしかない。

「今日の夜は楽しみだな。くっくっくっくっくっ」

「そうですね。それでは、失礼します」

 鏡谷はある決心を胸に秘め、通話終了のボタンを押した。



 — * — * — * —



 午前八時、玄関先で部活に行く妹を見送った後、背後からの視線を感じ、久鎌井は振り返った。


 そこには、花住綾香が立っていた。


「おはよう、久鎌井くん」

 綾香は久鎌井に声を掛けた。彼の妹を見送る姿を見る限り、昨夜、憎悪に心を燃やし、相手を殺そうと戦っていた黒い騎士と同一人物には思えなかった。

「ああ、おはよう」

 久鎌井は挨拶を返したものの、その表情は目に見えて曇っていた。

「何か用?」

「話があるの。時間いい?」

「ない。って言ったら?」

「時間が空くまでここに居座る」

「まあ、母親はまだ寝ているし……分かった。少し待っていてくれ」

 そう言って久鎌井は一度家の中に戻った。

 綾香は、このままこの扉が開かなかったらどうしようと思いつつその場で待つが、程なくして開いた。

「あまり時間はないけど、別の場所で話そう」

 そう言って久鎌井は玄関に鍵を掛けた。

「適当に歩きながら話しましょう。それでいいんじゃない?」

 すぐにでも話を始めたかった綾香はそう提案した。

「分かった」


 そうして二人は並んで歩き始めた。


 綾香にとってはデートと浮かれたくなるシチュエーションだ。

 しかし、隣で歩く久鎌井の表情を見ていたら、そんな気分になれるわけがなかった。

 無表情。それでいて緊張感が張り付いている。

「で、何を話したいの?」

 時間が惜しいだろう。沈黙は短く、久鎌井から口を開いた。

「日比野との戦いを、やめることはできないの?」

 綾香には、他にも話したいことも、聞きたいことがたくさんあるはずなのに、こんなことしか聞けない。それが悲しかったが、今はそんな乙女心を抱いている場合ではない。


 彼女の心の中にも大きな決意があった。


「できない」

 久鎌井ははっきりと答えた。

「なんで?」

「もう俺は、あいつを殺さなければ前に進めない」

「何言ってるの? 意味が分かんないよ!」

「あいつをあのとき殺してさえいれば、月野さんは死なずに済んだんだ。庇うだけじゃ、守りきれないんだよ」

 綾香が感情的な声を上げても、久鎌井は静かに、淡々とした口調で答える。

「それはそうかもしれないけど、だからって殺す必要はないじゃない!?」

「だけど、俺は奴を許せない。俺が、月野さんにできるのは仇をとってあげるくらいさ」

「そんなの月野さんは喜ばない」

「さあ、どうかな。どちらにしても、彼女が喜ぶとか喜ばないとか関係ない。ただ、俺は彼女のために結局何もしてあげられなかった。だからせめて仇をとりたいんだ」

「そんなの自己満足よ」

「その通りだよ。だけど、そうしなきゃ前に進めない」

「そんなの、殺すなんて久鎌井らしくない!」

「またそれか、君は俺の何を知っているんだ? 俺はこういう人間だったんだよ」

「そんなことないよ」

「だから、君に何が分かるんだよ。知った口をきかないでくれ」


 届かない。いま、自分の言葉は彼には届かない。一方通行ですらないことを、綾香は感じずにはいられなかった。


 気がつけば、二人はいつも会う公園まで来ていた。

(初めて会ったときから、わたしは少しずつ彼に惹かれ、その距離を縮めていった)

 なのに今は、久鎌井が果てしなく遠い。綾香はそう感じていた。

 自分の言っていることは間違っているのだろうか?

 間違っている気もする。無茶苦茶なことを言っている気がする。

 しかし、久鎌井が言っていることもおかしいと思う。

(殺すなんて言葉を口にするのは彼らしくないと思う)

 そう思うのには、綾香なりの理由があった。


 彼が、自分のことを一言も責めないからだ。


 あの夜。

 日比野が月野雫を貫いたとき。もしも綾香が駆け寄ってなかったら、そして、久鎌井が綾香を庇おうとしなかったら、雫を死なせずに済んだのだから。

 だから、そんな自分を責めようとしない彼の中にはまだ、あの白い騎士の心が残っていると、綾香はそう思っている。


「ああ、もうこんなところまで来たんだ。もう帰らないと」

「え?」

「俺にはやらなければいけないことがあるから」

「ちょっと、待って」

「じゃあ」

 久鎌井は振り返ると、来た道を戻っていった。

 彼の離れていく背中を見て、綾香は駆け出したい衝動に駆られる。

止めたかった。


 しかし、物理的な距離が縮まっても、今の久鎌井に言葉は届かない。


 どれだけ言葉を交わそうとも、このままではただの水掛け論。


(わたしの言葉では彼は変わらない)

 彼自身が、自分の心に気づかないといけない。

 どうしたら、その心に気づかせることが出来るのだろうか……

(そうだ)


 一つだけ、方法が見つかった。


 とても覚悟がいる方法だった、しかし、少女の決意は固かった。


(彼のことが……好きだから)

 恐れることは、なにもない。



 — * — * — * —



「っ――!」

 玄関を開けると、久鎌井はそのまま扉に背を預けて深く息を吐いた。

 頭が痛い。

 脳裏に、昨夜の光景が浮かぶ。

 暗い夜道、這いつくばる男性と、クズども、自分の禍々しい右腕と、そして――

 

 花住綾香の姿。


(うるさい! もうどうしようもないんだ!)

 自身にも制御できない感情のうねり。

 苛立ちの波が頭の中で荒れ狂っているようだった。


「友ちゃん。どうかした?」

 部屋から出てきた母親が、心配そうな顔でこちらを見ていた。

「ん? いや、何でもないよ」

 母親の顔を見ると、久鎌井の痛みは一瞬で消えた。

(俺には守るべきものがあるんだ。守らなきゃいけないものがあるんだ)

 家族を守るために、多くの人間を石に変えたペルセウスのように、母と妹のためにこの力を振るうのだ。甘いことをしては、また同じ過ちを繰り返すことになる。世間に蔓延る悪を全て刈り取る。

(だから、俺は前に進まなければいけない)

 そのためにはまず、日比野との遺恨を断たなければならない。そして、月野雫への償いとしなければならない。

「すぐに朝ごはんを用意するよ」

 穏やかな表情と声の奥に、黒い決意を抱いて、久鎌井はキッチンに向かった。



 — * — * — * —



 綾香が自宅に持ったのは午前十時頃。


 彼女が自室に入ると、見計らったようにスマホが震えた。

 相手は鏡谷だった。

「はい、花住です」

「ああ、鏡谷だ」

「何か用ですか?」

 綾香は不機嫌なのを隠さずに尋ねた。

 久鎌井の家を教えてくれたのはありがたいと思っていたが、それでも久鎌井を見捨てようとした鏡谷を許す気にはなれなかったからだ。

「……話がある。いつもの公園に来てくれないか?」

 電話越しの鏡谷の声はいつもと違って緊張感があった。

 昨日の夜、彼女の言葉が思い出された。


――わたしに、彼を救うことは出来ない。しかし、君ならば出来るかもしれない。

――君の言葉が、彼に届くことを願っている。


「……分かりました」

 鏡谷はいつも淡々と話すため、いまいち感情が読み取りにくい。だが、言葉通りのことを期待しているのであれば、綾香は鏡谷の話を聞かなければならないと思った。

 彼女は電話を切ると、直ぐに部屋を出て、そのまま家を飛び出した。


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