第8章 ガールズ・ディターミネーション
第8章 ガールズ・ディターミネーション ー①
五月十九日 金曜日
早朝、日の出前。
鏡谷は車内で煙草を吸っていた。
彼女の口から吐き出した煙が、狭い窓の隙間をすり抜けていく。
吸い始めて、もう長いことになるのだが、彼女がこの味を美味いと思ったことはなかった。
体に悪いものを取り入れるちょっとした自暴自棄が、彼女の心を辛うじて支えてきていた。しかし、そんな些細なものでは拭い切れない罪意識が、彼女を苛んでいた。
(ああ、何もかもが無情だ)
いつの間にか、煙草は根元まで灰になっていた。
その吸殻を車内の灰皿に捨てたとき、彼女のスマホが震えた。
「………ちっ」
液晶画面を見て舌打ちすると、鏡谷は車を降りて電話に出た。
「よくやったな」
彼女にとって、今一番聞きたくない声が、電話から聞こえてきた。
「……ありがとうございます」
「不満そうだな。くくくくっ」
電話の相手、鏡谷英昭は望の父であり、“アラクネ”を再度絶望させたアバター“エコー”の所持者である。彼は彼女の内心を見透かしたように笑い、彼女の神経を逆なでする。
「しかし、今回は本当によくやった」
「何が……ですが? いつも通り仕事をこなしただけですが」
受話器の向こうから聞こえるやけに上機嫌な口調に、鏡谷の胸中には、苛立ちよりも嫌な予感が過ぎった。
「面白そうなやつがいるじゃないか」
「誰の、ことですか?」
「とぼけるな。わたしも見させてもらったよ。彼にはまだ力があるらしいな」
鏡谷の脳裏には、月野雫を抱え涙する久鎌友多の姿が居座り続けていた。
(わたしは、もう彼を巻き込みたくない)
鏡谷は、強く、強く、歯を食いしばっていた。
「しかも、今回のことで、彼の心理状態も暴走、同化に近づいた。好都合じゃないか……なあ?」
相手の言葉に、鏡谷は無言でいることしかできなかった。
「ふんっ、今夜少し話でも聞いてみようか。かっかっかっかっ」
「話はそれだけで?」
「ん? ああ、要するに、そのまま彼を監視しろということだ」
「では、失礼します」
通話を切ると、鏡谷はスマホをそのまま強く握り締めた。
悔しさにまかせて、どれだけ力を入れても、彼女にはスマホを握りつぶすことは出来なかった。彼女はアバターの所持者ではなく、ただの脆弱で下らない人間でしかなかった。
— * — * — * —
昇降口。
花住綾香は久鎌井友多を待っていた。
時間は八時。
いつもならまだ家にいる時間だが、今日は、自らの意思でここにいた。
乃々絵に起こされたあと、綾香は急いで身支度をして家を飛び出してきた。学校に着けば、教室に荷物だけ置いてここに来たのだ。
久鎌井が来るのはいつも予鈴ギリギリの時間であることは綾香も知っていたし、むしろ今日いつも通りに学校に来るのかどうかも分からなかったが、彼女は居ても立ってもいられず、ここに来た。
綾香は、知った顔があれば挨拶をし、友人から何をしているか聞かれれば適当なことを答えた。知らない生徒から不審の目で見られても、それは気にしなかった。
周囲が今の彼女のことをどのように思おうとも、彼女自身はこの場を離れる気はなかった。
(もう体裁など気にしない)
綾香は、久鎌井友多のことが心配だった。
目が覚めて、いや、目が覚める前から彼のことが心配だった。
昨夜、雫を鏡谷に任せた後、彼は静かに夜の闇に消えていった。綾香はしばらく彼の後をついていったが、来ないで欲しいと言われ、その言葉に従った。
本当はそれでもついていこうとしたのだが、彼が纏っていた空気が、それを許してはくれなかった。
しかし、彼の背中が見えなくなると、ついていかなかったことを深く後悔した。
彼のことが心配で、綾香の胸は今も、締め付けられるように苦しかった。
(だから、今は直ぐにでも彼に会いたい)
彼は傷ついている。それを癒してあげたい。
自分ではどうにも出来ないのかもしれないけれど、それでも彼の傍で何かしてあげたい。そう思う気持ちを、彼女はもう抑えることが出来なくなっていたし、抑える気もなくなっていた。
ただ、怖くもあった。
(あのとき、わたしが飛び出したりしなかったら、あの悲劇は起こらなかったのかもしれない……)
自分を咄嗟に庇ってしまったために、久鎌井は雫を守ることが出来なかった。
(久鎌井は、そのことをどう思っているのだろうか……)
もしかしたら、自分を親の仇でも見るかのような眼で睨みつけてくるかもしれない。それでも綾香は、今、彼に会いたかった。そのことも含めて、今、彼がどのような感情を抱いているのか、どのような心理状態であるのか、少しでも知りたかった。
久鎌井友多は、まだ姿を見せない。
数分でも、今の綾香にはひどく永く感じる。
(もしかして、今日は学校を休むつもりなのかしら?)
そうならそうで、放っておくわけにはい。綾香は次の手段を取るつもりでいた。彼の家の場所を誰かに聞いて、学校をサボって訪ねるつもりだ。
(何にしても、今は待つしかない)
いつの間にか周囲の生徒の量が倍近くに増えていた。時間を確認すると、もう直ぐ予鈴がなる。普段の彼ならばそろそろ姿を現す時間だ。
綾香は顔を上げると、生徒の群れから彼を見逃さないようにと目を凝らした。そのとき――
「あっ!」
ようやく、久鎌井友多の姿を視界に捉えた。
人波の中一人、若干のうつむき加減で歩く彼の姿は、それだけならばいつもとはあまり変わらないようにも見えた。しかし、綾香にはそうは見えない。昨夜の絶望に打ちひしがれていた彼の背中が重なって見える。
綾香はすぐに駆け寄った。
「久鎌井」
彼は、綾香が近づいても彼女の存在に気が付くことはなく、声を掛けてようやく顔を上げた。
「ああ、おはよう」
久鎌井はその一言だけ返すと、彼女の横を通り過ぎようとした。
「待って」
綾香が声を掛けると、久鎌井はゆっくりと振り返るが――
「ごめん、今は……」
ただその一言を残し、そのまま教室に向かおうとした。
その表情から彼の心理状態がいかなるものか、綾香に図り知ることは出来なかった。
しかし、傷つき、疲弊していることは間違いないと感じた。
疲れきっているのか、耐えているのか、絶望しきっているのか、心が冷たく凍り付いてしまっているのか……外見的には、ただ、無表情という仮面が顔に張り付いているだけだった。
今はそっとしておいた方がいいのかもしれない。
時間がそのうちに彼を癒してくれるのかもしれない。
しかし、花住綾香は声を掛けずにはいられなかった。
この行動は、自分のわがままでしかないのかもしれない。しかし、そう思っても、彼女は彼の背中をただ見ていることができなかった。
綾香は走って、久鎌井に追いついた。
久鎌井の肩に手を置いて、強引に歩みを止めさせると――
「お昼、屋上で待ってるから」
それだけ伝え、綾香は彼のもとから走り去った。
その時、久鎌井が頷いたのかどうかも、綾香は確認しなかった。
彼が屋上に来てくれるのかどうかも分からなければ、来た彼に何を言えばいいのかも、まだ分かっていない。
しかし、心に湯水のように湧き出るこの気持ちを、彼女が抑えることはできなかった。
ようやく流れ出した心の時間。
それを止める術を、彼女は知らなかった。
— * — * — * —
屋上。
フェンスにもたれて座りながら、綾香は久鎌井を待っていた。
恋する乙女とっては、待つ時間もまた楽しい時間なのだろうが、今の彼女にとってはあまり、楽しい時間とは言えなかった。
きっと、何の問題もない恋人たちならば、後に訪れる時間がどれほど楽しいものになるかを想像し、淡い心が沸き立つのだろうが、これから訪れる時間が楽しいものなのかどうか、彼女には分からなかった。
(ていうか、恋人でも何でもないんだけど……)
ただ、彼の力になりたい。その思いに突き動かされて久鎌井をここに呼び出したが、まだその行動が正しいかったのかどうか、綾香にも判断がつかないでいた。
授業中もずっと考えていた。
自分はどうすべきなのか?
次に彼と顔を合わせたとき、一体どんな表情で、どんな言葉を掛ければいいのか?
どうすれば彼の心を救うことが出来るのか?
考えても考えても、答えは見つからなかった。
しかし、その過程で、少しだけど何か光明のようなものが見えた気がした。
(いまは、それを信じるしかない)
綾香はスマホを取り出し、時刻を確認する。
十二時四十分
彼が来ない可能性も十分にあった。
そのときは、それが彼の意思だと諦めるしかない。
(お願い、来て……)
まだハンカチに包んだまま開いてもいないお弁当を見つめながら、綾香は強く願った。
そのとき、入り口の扉が開いた。
「久鎌井!」
現れた彼に、綾香は思わず大声を上げてしまった。
「何の用? 花住さん」
久鎌井は後ろ手に扉を閉めるが、そこから動こうとはしなかった。
それは、彼の拒否反応なのだろうと思う。
この距離は、久鎌井と綾香の心の距離だ
まずは、この距離をどうにかしたいと、綾香は思った。
「こっち来てよ」
「ここでいいよ」
そう言う久鎌井の表情は、一見いつも通りにも見えるが、変化に乏しく、柔軟性がない。
感情を抑えるために作られた表情であると、綾香は感じた。
彼はいつも通りの自分を装っている。しかし、だからこそ、事情を知る綾香の眼には、一層痛々しく映った。
「そう? 今からお弁当を食べるんだけど、一緒に食べない?」
「いいよ僕は、食欲ないし」
「……『俺』でいいよ。どうせ二人しかいないんだから」
「……だったら花住さんも、いつも通りにしてよ。何かしおらしいよ?」
「それはどういう意味よ!」
綾香の大声に、久鎌井の顔にようやく笑みらしきものが浮かんだ。あくまで『らしきもの』だが、まったく笑わないよりましだと綾香は考えることにした。
「コホンッ……とにかく! こっち来なさい! ご飯も食べなさい! 体壊すよ」
久鎌井は困った表情を浮かべながらも、仕方なしといった様子で彼女の隣に座った。
「で、何の用?」
「少し、話を聞いてもらいたいなと思ってさ」
「話?」
久鎌井は意外そうな顔を見せた。
「うん、とりあえず……はい」
綾香はお弁当を開けると、玉子焼きを箸でつまんで、彼に差し出した。
「食べて」
「え、だからいらない――」
「食べて!」
「あ、ああ……」
久鎌井は、またもや仕方ないといった様子でそれを受け取ると、口に運んだ。
「……おいしい」
「お、ちゃんと褒めるなんて、ちゃんとわきまえているじゃない」
「……からかわないでくれ」
少しだけ憮然とした表情を見せ、視線を逸らす久鎌井。
どんな感情でも、わずかな表情でも、引き出したい。そう思いながら綾香は話を進めた。
「これさ、誰が作ったと思う?」
「ん? 花住さんか、花住さんのお母さん」
「答えを二つ言うのは卑怯ね」
「別にいいじゃないか」
「って、話が進まない。そうじゃなくて、これはね、家の使用人が作ったの」
「使用人?」
綾香の言葉に、久鎌井が少し驚きの表情を見せた。
「うん、すごいでしょ? わたしの家、使用人を雇ってるの」
そして綾香は、自分のことをいろいろと話し始めた。
父のこと、母のこと、兄弟のこと。
家の変な決まり事や、それをずっと守ってきたこと。
そんな生活の中でアバターの力を目覚めたこと。
「っと、今日はこんなものかな?」
綾香は時間を確認して、話を止めた。
「ん、ああ。そうだね」
久鎌井は途中からずっと頷くだけだったが、今は少し戸惑った表情も浮かべていた。
「……どうして、こんな話を俺に?」
「だって、わたしのことを聞きたがってたじゃない」
綾香はそう答えたが、半分その通りで、半分は違った。
彼女が話をしたもう半分の理由は、それは自分が聞いて欲しいと思ったから。
でも、本当に重要なことはその内容ではなかった。
ここに、彼が来ることだった。
自分に会いに、屋上に来てくれたことこそが、綾香は一番重要なことであった。
もしも、久鎌井がここに来なかったのならば、自分に出来ることはもうないだろう。しかし、逆に彼がここに来てくれたということは、彼が他人による慰めを必要としているということであると、綾香は考えた。本当に来るのが嫌ならば、自分の言葉など無視して、一人でいることが出来たはずだ。
それは、彼が心を閉じきっていない証拠であると、綾香は考えた。
ということは、自分はきっと、彼に手を差し伸べ救おうとする努力をしてもいいのだろうし、もしかしたら、彼もそれを望んでいるのかもしれない。
心の傷を癒すのに必要なのは時間だけではなく、他人の存在だ。彼がそれを受け入れることが出来る心理状況かどうかが、屋上に来るか来ないかで分かるのだと思ったのだ。
これが、綾香が授業もそっちのけで考えた末に見つけた光明だった。
「それじゃあ、久鎌井、先に戻ってよ。……変に思われるのも嫌でしょ?」
「え? ああ、そうだね」
久鎌井は立ち上がると、屋上を去っていった。
綾香はその背中をじっと見送る。
「変に思われてもいいんだけどね」
その呟きは、大きく広がる空に霧散していく。
きっと、今は届かないほうがいい。
でも、いつかは届いたらいいなと思う。
(ああ、わたし……)
間違いなく恋する乙女だった。
綾香は、これからも久鎌井に声を掛けては屋上で話そうと思っているが、そのときの待ち時間はきっと楽しいだろう。
しかし、そんな想像も、ただの夢物語になってしまうことを、そのときの彼女は知らなかった。
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