第7章 ボルテックス・オブ・ディストーション ー⑤
時は遡り、時刻は九時半。
夕飯が済んでも、綾香の気分が晴れることはなかった。
父親も兄も、忙しくて一家が揃うことは滅多にない花住家の食卓は、母親と綾香の二人だけだった。
母親も娘の元気がないことに気づいて声を掛けたものの、綾香は何でもないと答えることしかできず、茶化すこともできないその空気感に、母親も静かに食事を済ますことしかできなかった。
もう、何もする気が起きない綾香が、さっさと風呂に入って、あとは布団に潜り込んでしまおうとしたその時だった。
「え!?」
アバターの反応が感じられた。
その場所は、海月病院がある方角であった。
「まさか……」
病院から感じられる反応といって、心当たりはたった一人。
久鎌井友多が助けたはずの少女、“アラクネ”の所持者、月野雫の反応だ。
(彼女は救われたのではない?)
綾香の脳裏に、今日の屋上での久鎌井の嬉しそうな表情が思い浮かんだ。
「どういうことなの……?」
続いてもう一つ反応が現れた。
病院の近くで、“アラクネ”と思われる反応が現れた直後に出現したということは……
(パンドラの二人が見張っていたのだろうか?)
綾香は考えを巡らせた。久鎌井は彼女を救うことができたと思っていたが、パンドラの二人の見解は違い、彼女を見張っていて、そして今夜、再び“アラクネ”が暴走をしてしまったということなのだろうか?
(ともかく、ここにいては何も分からない)
綾香は、何とかして現場に行こうと思った。
きっと、久鎌井もこの反応を感じている。となれば、彼は何らかの行動を起こすに違いない。
だが、さすがに綾香がこの時間に家の外に出ることは、母親にも、乃々絵にも止められてしまう。そうであれば、いっそさっさと寝て、アバターとなって現場に馳せ参じた方が早かった。
綾香は机の引き出しを開けると、その中に入っていた薬を取り出した。
以前、初めて会ったパンドラの人からもらった睡眠安定剤だ。
乱暴にその蓋を開け、二錠を飲み下すと、すぐにベッドに入った。
じきに寝つき、次に綾香が気が付いた時には、“ピュグマリオン”の姿で公園にいた。
どれくらい経ったか分からなかったが、すでに“アラクネ”と日比野と思われる反応は移動していた。何処に向かっているかはよく分からないが、綾香には何となく久鎌井の家に向かっているような気がした。
綾香はアルマジロの短い足を懸命に動かし、駆け出した。
気配だけを頼りにひたすらに走る。
走る。
走る。
そして、あと少しで河川敷に出るというところで、アバターの反応が増えた。
(久鎌井だ!)
やはり現れた。
日比野と“アラクネ”が争っているとなれば、久鎌井はきっと“アラクネ”を守ろうとするのだろう。
そう思うと、一昨日までは感じなかった何かが、綾香の心を締め付けた。
しかし、今はそんなことを感じている場合ではないと、綾香はかぶりを振ってさらに駆けた。
水かさの減っている川の中央で、三つの影が対峙しているのが見えた。
“アラクネ”と日比野。そして、その間に立つ久鎌井。
堤防の上には、鏡谷の姿もあった。
久鎌井はアバターではなかった。しかし、その左腕には“ペルセウス”の鎧と“アイギスの盾”が存在していた。
(同調状態だ)
一方、“アラクネ”は胴体の背には、壁に埋まっているかのような少女の姿が見えた。
(あれは……同化状態なの?)
同調状態のさらに上、第三段階目の同化状態。彼女がどうしてそのようなことになってしまったかは分からないが、こうなってしまっては、元に戻るのは不可能に近いと、綾香は聞いていた。
“アラクネ”と久鎌井の影が近づき、何やら話しているように見えた。
その後ろで、虎視眈々と様子を伺う日比野
(いけない!)
綾香には日比野が今にも襲い掛かりそうに思え、とにかくそのままの勢いで日比野に向かって突き進んだ。
「久鎌井!!」
綾香の思った通り、日比野の腕が振るわれたが、それは久鎌井も予測していたのか、しのいでいた。
「やめなさいよ! あんた!」
綾香は、久鎌井の助けになりたい一心で、体当たりを仕掛けた。
それが、悲劇を呼び込むとも知らずに。
体当たりを受けた日比野は多少驚いたものの、それほど動じた様子はなかった。
「花住さん!」
久鎌井の声があげたが、綾香は日比野に吹き飛ばされ、彼女にその声は届かなかった。
「お前は邪魔だ」
代わりに彼女に聞こえたのは、日比野の冷酷な声、そして、目に飛び込んできたのは、自身に迫りくる“ナルキッソスの腕”。
身を竦ませる綾香。思わず目を瞑った。
「危ない!」
久鎌井の声が聞こえた。綾香も、反射的に全身に力を入れて衝撃に備えた。しかし――
「動いたお前が悪い」
衝撃はやってこなかった。
次に綾香が目を開けると、“ナルキッソスの腕”は“アラクネ”の体を貫いていた。
— * — * — * —
「――うわあああああああああああ!」
久鎌井の叫び声が、天を衝く。
「いただく」
日比野の腕はさらに形を変える。先が五本の枝に分かれ、花びらが開くようにして反り返り、そのまま“アラクネ”の姿を包んでいく。
久鎌井はその枝の動きを止めようとするが、どうにもならなかった。“ナルキッソスの腕”はさらに伸び、さらに枝分かれし、やがて繭のようになり、“アラクネ”の体全てを包み込んだ。
「月野さん! 月野さん!」
どれだけ叫んでも、どれだけ腕を振るっても、その植物の繭が破れることはなかった。
「はははははは! いいぞ! 力がみなぎる! こうして相手の力を養分のように吸い取っていく、これが“ナルキッソス”の力だ! ははははははは!!」
日比野の哄笑が響く。
「くそっ、くそぅ……」
久鎌井は血が滲むほど歯を食いしばりながら、繭のようになった“アラクネ”を何度も何度も叩いていた。
左腕からは、いつの間にか“アイギスの盾”が消えていた。
「わたし、わたし……」
その姿を見て、綾香も呆然とすることしかできなかった。
(わたしが何もしなければ……わたしのせいだ)
久鎌井の行動を手伝うことも、高笑いする日比野に飛び掛ることもできない。彼女の心もまた、絶望に包まれていた。
「もういいだろう……日比野」
日比野の後ろから、鏡谷が姿を現した。
悲痛な面持ちで、日比野の肩に手を掛ける。
「あんたは黙ってろよ」
「やめろと言っている!」
鏡谷がそう言って懐に手を入れたとき。
「………ちくしょおおおおおおおおおお!」
久鎌井が吠えた。
それと同時に、日比野の腕が切断された。
「何!」
日比野自身も何をされたのか分からなかった。
綾香も、近くで視界にはとらえていたはずなのに、何が起こっているのか理解できなかった。
久鎌井は、中の“アラクネ”を助け出すために、狂ったように枝を掻き分けている。その様子は引きちぎっている様でもあり、引き裂いている様でもあった。
そして、中から月野雫を引っ張りした。
アバターの中に取り込まれていた状態だったから、外面上の傷は見当たらない。しかし、彼女を覆っていたアバターはもはや形を止めてはおらず、黒い髪の毛らしきものが散り散りになっているだけだ。そして、日比野の切り裂かれた腕ともども、そこに初めから存在していなかったかのように雲散霧消していく。
彼女自身は眼を閉じ、生きているのか死んでいるか分からない。
「月野さん! 月野さん!」
久鎌井はそれでも必死に呼びかけて
「てめぇ、何しやがった!」
腕を切断された事実に、怒りを露わにする日比野。久鎌井がそれに気づいた様子はない。
綾香は日比野の殺意に気づき、自責の念と、何が起こっているのか分からない状況に混乱していたものの、久鎌井を守りたい一心で正気に戻り、せめて盾になろうと、彼の前に飛び出した。
しかし、日比野が腕を振り上げることはなかった。
「もういいだろ、日比野。君の勝ちだよ」
鏡谷が、彼のこめかみに拳銃を突きつけた。
「けっ」
日比野は彼女を一瞥すると、感情を押さえ込んで背を向けた。
彼の腕が、本来の人間のそれに戻る。そして、その姿は暗闇の中に消えていった。
綾香の目の前には鏡谷だけになった。しかし、綾香が緊張を解くことはなかった。
綾香が駆けつけた時、鏡谷の姿は堤防の上にあったが、彼女が“アラクネ”を攻撃しようとする日比野を止めようとする気配はなかった。確かに、久鎌井に対して危害を加えようとすることに対しては止めたかもしれないが、“アラクネ”を守ろうとした久鎌井にとって、鏡谷は敵であると、綾香はそう思った。
そうであれば、自分にとっても敵である
(わたしは、彼の味方でありたい)
そう思うことに、意地を張る自分はもういなかった。今の状況が自分の行動が招いた悲劇かもしれないとしても、ここで引く理由にはならない。
彼女の中でもう、そんな次元は通り越していた。
(ただ、わたしは、彼の傍にありたい)
そんな彼女の気迫に押されたわけではないが、鏡谷は拳銃をしまうと、小さく呟いた。
「すまない」
「何がよ!」
鏡谷は辛そうに表情を歪めていた。しかし、たとえ本心から謝っていたとしても、自分の背後で、声も出せずにただ泣いている久鎌井を見て、綾香は彼女を許す気になんてなれなかった。
「わたしは、止めることが………いや、何を言っても言い訳だな」
「その通りだわ」
綾香は辛らつに言い放った。
二人の間に、しばらくの静寂が横たわる。
彼女を睨みつける綾香と、ただ何も言わずに視線を逸らし、歯を食いしばる鏡谷。
「彼女は、生きているの?」
「……今はな。しかし、アバターが殺されたとすれば、心が死んだということだ。そうなればもう目覚めることはない。あと数日で、息を引き取るだろう」
「そんな……あんたは何をしてたのよ!」
「すまない……」
「だから謝ったって――」
綾香が感情のままに言葉を繋ごうとしたとき、その背後で動きがあった。
振り返ると、久鎌井が月野雫を抱えて立ち上がっていた。
「大丈夫? 久鎌井」
上げられた彼の顔には、幾すじもの跡が残っていた。しかし、もう涙は流れていない。
綾香の問い掛けには何も答えず、彼はただ一言、
「病院へ」
そう呟いただけだった。
「わたしが、連れて行こう」
「誰があんたなんかに!」
綾香が、鏡屋の提案を突っぱねようとしたその時、
「お願いします」
そう言って、久鎌井は歩き出した。
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