第2章 ボーイズ・デイリー・ライフ

第2章 ボーイズ・デイリー・ライフ ー①

五月九日  火曜日



ジリリリッ、ジリリリッ、ジリリリッ――


 単調で耳障りな目覚まし時計の音が止まった。


 止めたのはこの家で一番早くに起きる男、久鎌井友多だ。

「さてと」

 時間は確認するまでもなく六時。

 いつも、久鎌井は目覚ましをセットした時間よりも少し前に自然と覚めるのだが、それでもアラームが鳴るまで待ってから止めていた。

 その行為に別段理由はない。せっかくセットしたのだから、何となく鳴るまで待ってしまう。ただそれだけのことだった。


「よし!」

 軽く首を動かしてほぐすと、気合の一声とともに久鎌井は動き出した。


 忙しい朝の始まりだ。


 久鎌井はまず二階の自室から出ると、家中のカーテンを開けて回り、玄関の鍵を開け、新聞を取り込む。

 次に顔を洗ったら、洗濯物を洗剤と共に洗濯機へ入れてスイッチを押す。もちろん柔軟材も忘れてはいない。ちなみにお風呂の残り湯を使用して水道代の節約もしている。

 その次は、エプロンをつけて三人分の弁当作りに入る。


 手際は良く、慣れたものだ。

 すべてが手作りではなく、冷凍食品も使っているが、その無駄のない動きはまさに主婦のようだ。


 弁当が終われば次は朝食の準備だ。キャベツを切って皿に盛り、フライパンでハムエッグを作る。そして、食パンをトースターへ入れてタイマーをセット。


 朝食のメニューは基本的に毎日一緒だった。だから久鎌井は何も考えずに効率を重視して動いていた。食器も同じ、作る順番も同じ、だから久鎌井自身の動きも、昨日の自分と全く同じ。


 久鎌井家における家事はすべて久鎌井友多の仕事だった。それは彼の父親が亡くなって以来だが、小さいころはやりたくてもできなかった。初めのうち祖母がやっていたが、その傍らで彼が進んで手伝いをし、祖母がいなくなってからはそのまま引き継いでいた。


 彼の父親が亡くなってからは十年が経ち、祖母が亡くなってからは五年経過している。


 久鎌井は、それが自分の役割なのだと子供ながらに決め、ずっと続けてきた。決して面白いわけではなかったが、充実感はあった。


 朝食の準備が終れば、さらに次の仕事へと移る。母と妹を起こさねばならない。


(これが一番骨が折れるんだよな。)


 二人とも朝に弱い。父親がどうであったか覚えていないが、きっと自分は父親に似て、妹は母親に似たのだろうと、久鎌井は勝手にそう思うようにしていた。

 何にしても、ここで二の足を踏んでいたら先に勧めない。


 久鎌井はまず一階の母親――久鎌井くがまい唯奈ゆいなから声を掛けた。寝室の扉を開けると、アラーム止めたままの姿なのだろう、唯奈は目覚まし時計を鷲掴みにしたままで寝ていた。


「ほら、母さん、朝だよ」

「ううん……うん」

 久鎌井は容赦なく布団を引っぺがした。唯奈のパジャマは捲くれ上がっていて、臍が覗いていた。


 唯奈は、高校生の子供がいるとは思えないような綺麗な女性であった。スタイルも良い。そのことに関して久鎌井も異論はなかった。


 だが、赤の他人から見れば色っぽい寝姿も、実の息子から見ればだらしなさの塊にしか見えなかった


「いい年して、まったく」

 久鎌井はパジャマを引っ張って、臍を隠した。

「……誰が、年寄りだって?……」

 唯奈は歳が連想されることを口走れば過敏に反応する。

「………zzzz」

 寝ぼけていても反応するほどに。そういう反応が返って年寄りくさいよと、久鎌井は何度か注意していた。


「いいから起きなよ」

「……誰が年増だって?……」

「言ってないよ」

 久鎌井は母親の手から目覚ましを取ると、五分後になるようにセットして、部屋の入り口に置いておいた。


「これで良し。さて、次」


 彼の妹――久鎌井くがまい舞奈まいなの部屋は久鎌井と同じく二階だ。

 部屋に入ると母親と同じく目覚まし時計を鷲掴みにして寝ていた。


「起きな」

 布団を引っぺがすと、臍が覗いているのも母と一緒だった。


「はあ」

 久鎌井はため息をつくと、再び声を掛けた。

「朝だぞ」

 この妹の困ったところは――

「うーん……友ちゃん、引っ張ってー」

 甘えん坊なところと、兄をちゃん付けで呼ぶところだ。


「ったく――そら」

 久鎌井は、映画に登場するゾンビのように挙げられた妹の両手を引っ張り、上体を無理矢理に起こさせた。

「んー、おんぶ」

「それはしてやらない。さっさと起きてきなよ」

 久鎌井はぽふぽふと寝癖だらけの妹の頭を軽く叩いて、彼女の部屋を出た。

「むー」

 舞奈はほとんど目を開けないままむくれていた。


 久鎌井が一階に下りると、生ける屍のごとく部屋から這い出てきた母親と遭遇。


「おはよう、母さん」

「おはよう。友ちゃん、おんぶして」

 子が子なら、親も親か。

「いいから早く椅子に座って」

 久鎌井は無視してキッチンへと向かった。

「むー」

 唯奈は、妹と同じ顔でむくれていた。


 久鎌井はささっとテーブルに朝食を並べて、テレビのスイッチを入れた。


「「「いただきまーす」」」


 なんだかんだで母親と妹も席に着き、三人の朝食が始まった。

 母親も妹も、朝ご飯を食べだすとようやく眼が覚めてくる。そんなところもよく似ていた。


 久鎌井は二人よりも早く食事を済ませると、洗面所で身だしなみを整えた。女性陣が洗面所を使い始めると長いので先に済ますようにしているのだ。


 それから着替える前に、下着姿でそのまま風呂場の掃除をすませ、出てきたら制服へと着替える。


 その頃には母親と妹も食べ終わり、それぞれ出勤、登校の準備を始めていた。


 久鎌井は再びエプロンをつけると、食器洗いを始めた。

 それが終わったら二人に確認を取ってから、簡単にトイレの掃除を済ませる。


「ねえ、友ちゃん、どう? おかしくない?」

 掃除を終え久鎌井がトイレから出ると、妹が待ち構えていた。彼女は長い髪の毛を耳の上辺りで二つ縛りにしている。そして、自分で鏡を見てセットした後に、何故か兄に確認する。


「ああ、おかしくないぞ。ところで天気はどうだった」

 久鎌井は答えるついでに尋ねた。

「晴れだって」

「そっか」

 それならいいと、久鎌井は洗濯機から洗濯物を取り出し、物干しに干し始めた。


 それが終わると、今度は冷ましてあったお弁当を重ねて、ハンカチで包み、母親と妹にそれぞれ渡した。その頃には母親が家を出る時間になる。


 唯奈はすっかりキャリアウーマンになっていた。スーツを着こなし、化粧もナチュラルメイクに仕上げている。少しウエーブがかった髪は格好よく決まっており、この姿ならば少しは周囲に自慢できる母親だなと、久鎌井も思う。

 彼女の会社は家から車で三十分程掛かる。だから最初に家を出るのは彼女だった。


「行ってくるね」

「ん、気をつけていってらっしゃい」

「いってらっしゃーい」


 それから少し遅れて妹が家を出る。彼女は中学三年生。彼女の中学はここから歩いて二十五分程だ。


「友ちゃん、いってきまーす」

「あい、いってらっしゃい」


 久鎌井の通っている高校は家から歩いて十五分程度。二人と比べて、出かける時間に少し差が生まれる。


 二人が出て、ようやく久鎌井は一息つくことが出来る。

 短い時間ではあるが、ゆっくりと椅子に座ってお茶を飲んだりする。

 少しじじ臭いと、久鎌井も自ら思うが、朝起きてからずっと動き詰めだから、この一服も必要だった。


 これが久鎌井家の朝、久鎌井の日常だ。


 そして、それぞれの役割だ。


 母――唯奈は仕事でお金を稼ぐ。

 兄――友多は家事でみんなの面倒を見る。

 そして妹――舞奈は……


(マスコットかな)

 なんだかんだで、天真爛漫な妹の姿は、兄にとって癒しであった。本人の前では言わないが。


「さてと」

 久鎌井はお茶を飲み終わると、さっと湯呑を洗い、鞄を持った。

 彼が家を出るのは最後だ。しかし、それでも声を掛ける相手はいた。


「俺もいってくるよ。父さん」

 玄関の下駄箱の上に飾ってある家族の写真。その中心で笑顔を浮かべて映っている父親に挨拶をして、久鎌井は家を出た。



  ― * ― * ― * —



 いつも通りの朝の忙しさ。

 いつも通りの通学路。

 久鎌井にとって、それらは何度も繰り返してきた、何の変哲もない日常だ。

 顔を上げれば小学生から高校生、通勤中の会社員まで、何となく毎日見かける気がする顔ぶれが、同じように日常を送っている。


 しかし、久鎌井の内情はいつもと違っていた。


「はあ……」

 何とはなしに彼の口から漏れるため息。

 原因は昨日の出来事、そして沢渡衣の存在だ。

 彼女は三年生で、弓道部の副部長。


 久鎌井は一年のとき、弓道部に所属していた。

 正直なところ、彼は高校で部活に入るつもりはなかった。久鎌井にとって重要なのは家のことであって、高校自体、家から近いという理由で選んだのだから、部活に時間を使う気など毛頭なかったのだ。


 しかし、そんな主婦的な考え方をしている久鎌井を見かねた母と妹は、部活に入ることを勧めた。もちろん久鎌井は断ったのだが、二人の押しに負けので、以前に少しだけ練習風景を見て興味があった弓道部に入ることにしたのだ。ただし、一年間だけ。これは久鎌井自身が決めた期限だった。


 その一年、弓道をやれたのは確かに楽しかった。しかし、久鎌井はただ弓道をやっていただけで、そこでの友人関係を築くことや、あるいはより高みを目指すための血のにじむような努力をすることはなかった。本来自分がやるべきことはあくまで別にあるのだというスタンスを崩すことはなかった。要は目立たず、はた目にはただ淡々と部活をやり、時間になれば帰る。彼はそれだけの部員であった。


 だから、久鎌井としては衣が自分のことを覚えていたこと自体に驚きを隠せなかった。


 衣はこの学校内で五本の指に数えられる美人である


 大きな瞳、きりっとした眉、背中を流れる美しい長髪、背も女性にしては高く、スタイルもいい。しかしそれを鼻にかけた様子はまったくない。


 性格はさっぱりとしてその点では男っぽいといえるのかもしれないが、女性らしい優しさというか包容力もある。一見、近寄りがたい雰囲気も感じるが、一度話をすれば気さくな性格だと知れる。


 男子からの人気はもちろん、それ以上の女子人気を誇る強者であり、弓道部員でなくても、当然のごとく彼女の名前を知っている生徒は多い。


 そんな女性が、久鎌井のような目立たない男子生徒を待ち伏せしていた。

 しかも、登校する前からずっと教室前で待っていたという。


 周囲の興味を引かないわけがなかった。


 思い当たる節がなければ、流石の久鎌井でも、うれしくないわけがない状況ではあるのだが……


(はあ、しくじったな)


 どうも“あのとき”は気持ちが大きくなっていけない。

 思わずしなくてもいいことをしてしまう。

 だから、彼女に気づかれてしまったのだ。


(先輩に、俺の秘密を知られてしまった)

 そして、その話を聞きたがっている。


(まあ、別に話してもいいか)

 知られてしまったものは仕方がない。


 多くの人間に知られ、騒ぎになってしまうのは困るが、彼女であれば口が堅そうだ。それに、話さなかったら彼女は久鎌井が口を割るまで何度でも教室を訪れる気満々のご様子だった。

(それは返って、大騒動になるな)

 もしそんなことをされれば大変な騒ぎになることは、昨日のクラスメイトの反応を見れば一目瞭然。ここは大人しく話をした方が利口なのかもしれない。久鎌井はそう思い始めていた。その気持ちの裏で、むしろ話したい自分の欲が見え隠れする。今までずっと自分だけが抱えていた秘密だ。騒ぎになるだけだし、そもそも信じてもらえるかすら分からない話なのだから、わざわざ自分から言いふらそうなんて思ってはいなかった。ただ、知られてしまったのだから仕方がない。それが自分への言い訳であることを、久鎌井は心のどこかで自覚していた。


(それにしても、俺の話を先輩、信じるのかな?)

 それはあまりにも非科学的なものだ、突拍子もないものだ。自分だって人からそんな話を聞いてもまず信じない。

 しかし、彼女は秘密そのものを見ている。そして“それ”から久鎌井にまで自力で辿りついている。だとしたら……


 考え事をしているうちに、久鎌井は学校に辿り着いていた。

 校門を抜けて昇降口で靴を履き替え、教室へ。

 その間もどうすべきか悩んでいたが、自分の席に着く頃には、心の天秤は片方に傾いていた。


 彼女が知りたいというのなら、自分の話を聞いて信じる気でいるのなら、そして、彼女がその事実を聞いて皆に話して回るような人間でないのなら、話さないでいる理由というものが見つからない気がした。


(話してみてもいいか)


 あの“夢”の話を。


キーンコーンカーンコーン――


 久鎌井の決心を待ち構えていたかのように、予鈴が鳴り響いた。


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