41話「I Love You」
こういう時に限って、タクシーをほとんど見かけなかった。見かけたとしても、すべて満車で、手を上げる俺を徹底的に無視して通り過ぎて行った。
仕方がないので、俺はセグウェイで現場まで行くことにした。
セグウェイで疾走する俺は、たびたび注目の的になった。台風といえど、ちらほら人は歩いているのだ。きっと俺は、台風と共に現れた風の妖怪だと思われたことだろう。
視界不良も甚だしいが、なんとか前に進む。
ミチルがあの場所にいなかった場合のことは考えていない。俺には確信がある。ミチルはゼッタイにあの場所にいる。
待っていてミチル。いま行くよ!
体はびしょ濡れ。寒い。薫の熱湯風呂トラップが恋しくなってきた。
「うわぁッ!」
風に飛ばされたなにかが俺の顔に張り付く。冷静にセグウェイを停止させ、顔に張り付いた紙のようなものを剥がす。
「OH……」
卑猥雑誌だった。しかし、いまはY染色体をザワつかせている場合ではない。
卑猥雑誌を捨てて走行を再開。
その後も、看板が一枚、案山子が一体、蛙が二匹、セーラー服が六枚飛んできて、俺は幾度となく死にかけた。
「ぐぉぉ……!」
完全に向かい風だ。呼吸すら困難。叩きつける雨粒で目を開けていられない。
「お、ついに……」
花火大会が催された会場近くの、川原の土手が見えてきた。
神社まではもうすぐだ。
道の脇には様々な商店が並んでいるが、どこもシャッターが下りている。ただ一つ、小さな洒落たホテルだけが開いている。玲が言っていたホテルだ。ここは部屋から花火を優雅に鑑賞できるとあって、花火大会が催される際はブルジョワ連中が割高の料金を支払ってでもこぞって利用する。
ホテルの前を突破。土手沿いの道をひた走る。
店や民家が少なくなっていき、やがて一軒たりとも見えなくなった。
雑木林が近づいてくる。
増水した河川が猛威を振るっているのが横目に確認できる。あんなものに飲み込まれたら確実に助からない。
もう少しだ。
「げほっげほっ……」
さっきから咳が出る。どうやら風邪をひいてしまったようだ。俺は風邪をひくとすぐに肺炎へと誘爆してしまうので少し心配だ。
意識してしまうと、頭も痛いし、だるいし、ひどく寒い。寒いのはもちろん雨を大量に浴びているから当たり前なのだが、風邪特有の悪寒もミックスしてきている感じなのだ。
ミチルと会う前に俺が死んでしまうのではないかと不安になるが、止まることはできない。できやしない。
必ず俺はミチルを連れて帰る。
***
結果から言えば、ミチルはいた。
雑木林の中の小さな神社に、彼女はいた。
しかし。
「ミチル!」
彼女は境内にうつ伏せで倒れていた。
体を抱きかかえてみると、額から出血しているのが分かった。
「そんな……ミチル! 起きてよミチル!」
暴風に煽られて飛んできたものがぶつかったのだろうか。
「そうだ、救急車、救急車を呼ばないと……」
俺はポッケから黒光り三号を取り出すが、
「そんな……三号……」
雨水を大量に吸い込んだ黒光り三号は、すでに息絶えていた。
俺は次に、ミチルのスマホを探した。しかしミチルはスマホを持っていなかった。どこかに落としてしまったのだろうか。
すると残された手段は一つ。
俺はミチルをおんぶする。
「ぁあ……いっつぅ……」
くじいた足が悲鳴をあげる。
ここで俺は、絶望的な事実に気付く。
ミチルをおんぶするのに両手がふさがって、セグウェイを操作することができない。ミチルに意識があれば、体に掴まってもらうことも可能だが、いまの彼女は人形のように動かない。
いま彼女の体重を支えることができるのは、俺の両手のみ。
「仕方ない……」
俺はミチルをおぶって歩いていくことにした。
首筋にミチルの吐息、そして背中に鼓動を感じたときは、ホッとした。ちゃんと生きている。
歩くたびに悲鳴をあげそうになる。いや、事実悲鳴をあげた。踏み出すたび絶叫した。普通に歩くのすらキツイ状態なのに、ミチルの体重が加わって、足への圧力はさらに強まる。でも、まあ、ミチルの体は軽い。それは幸いである。ちゃんとご飯食べているのかい?
民家があれば、そこで電話を借りたいのだが、あいにく見当たらない。ホテルのあるあたりまで行かないと民家はない。ならばホテルでいいだろう。ホテルで電話を借りるのだ。
とはいえ、ガチでカメに負けてしまうくらい俺の歩みは遅い。
俺がまず一人でホテルに行って、そこで電話を借りて救急車を要請するのが得策だった。そう気付いたのは、すでに神社からずいぶんと離れてからだった。わざわざセグウェイを取りに戻るのは、より時間を無駄にする。ならばここに一旦ミチルを置いて、身軽になってホテルに駆け込もうか?
いやダメだ。ミチルを下ろしたところで劇的なスピードアップは望めない。なにより、こんなところにミチルを独りぼっちにしていくことはできない。
光は見えているんだ。ホテルの部屋の窓から漏れ出す淡い光が見えているんだ。もう少しなんだ――。
雨で視界が歪んで、街灯の明かりが視野全体に広がる。
痛い。痛い。痛い。痛い。体中が、どこもかしこも痛い。
雷鳴が俺をあざ笑うかのように轟く。
俺は何か叫びたくなった。叫んで心を奮い立たせるのだ。
「ミチルぅぅぅぅ! 好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
だからそう叫んだ。
まったくなんて気持ちがいいんだ! こんな大声で、こんな本人の近くで愛の告白の練習ができるなんて!
「好きだぁぁぁぁぁぁ! ミチル!」
「私も、大好きだよ……」
「え?」
足が止まってしまった。ただでさえ止まっているような足が、完全に止まってしまった。
「ミチ、ル……?」
しかしそれ以上、ミチルは喋らなかった。相変わらず、だらんと脱力している。
寝言だったのだろう。
でも、どうしてだろう。
涙が出るほど嬉しい。
寝言を聞いて喜ぶなんて、俺は新手の変態か?
「……あはは……行けるぞ」
俺は再び歩き始めた。
雨と涙で視界は絶望的。いや、それだけじゃない。意識が朦朧としている。頭の中の見晴らしも最悪だ。いまなら一桁の掛け算すら間違うかもしれない。
気を抜いたら終わりだ。ぽっくりイってしまう。
「もう少し……だ……」
進め――。
前へ――。
「うあ……!」
俺は転んでしまった。躓いたのではない。急に力が抜けてしまったのだ。
ミチルの体が投げ出されてしまった。
「ごめん、痛かったよね……」
俺は立ち上がらないといけない。ミチルを抱き上げないといけない。そして進むのだ。
「あれ? おかしいな――」
力が入らない。ミチルを抱き上げるどころか、まず、自分が立ち上がることができない。
「頼む……もう少し、なんだ……。頼む、もう少しがんばってくれよマイボディ……マイブレイン……」
俺の祈りも空しく、視界はどんどんぼやけていく。そしてブラックアウトしていく。アスファルトを叩く真っ白い飛沫が、墨を吸い込むように黒く染まっていく。
俺は最後の力を振り絞り、腕の力だけで、ほふく前進の要領でミチルに近づく。
「寒いよね、ごめん……」
俺はミチルの体を抱きしめた。
これで少しは温まるだろうか?
目の前は真っ暗だ。
耳に残る雨と風と雷の音も、徐々に遠ざかっていく――。
「愛してる」
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