空谷の跫音

三鹿ショート

空谷の跫音

 数十年も前に別れた恋人が顔を出した理由は不明だが、他者との交流というものがどれほど良いものなのかを、改めて知ることになった。

 何故なら、私は家から出ることができず、隣に住んでいる人間とすら会話をすることができなかったからだ。

 覚悟する暇もなくこのような生活に突入してしまったために、私の精神的な苦痛は想像したこともないほどに辛いものだった。

 だからこそ、かつての恋人である彼女の出現は、私にとって僥倖以外の何物でもなかったのである。

「それならば、あなたの友人も連れてきましょうか」

 彼女がそのような言葉を吐いたために、私は迷うことなく同意した。

 彼女は口元を緩めて頷くと、

「では、明日を楽しみにしていてください」

 彼女は手を振りながら、我が家を後にした。

 私は、明日が楽しみであるあまりに、眠ることができるのだろうかと不安になった。

 だが、悪い気分ではない。

 久方ぶりの感覚に、私は興奮もしていたのだった。


***


 彼女が連れてきたのは、学生時代の私の友人だった。

 その再会に喜びを感じたものの、何故彼女がその友人と知り合いであるのかが気になってしまった。

 学校を卒業した後、私は都市部で生活することを選んだ一方で、友人は地元に残ることを決めた。

 彼女と交際を開始したのは都市部で生活をしていたときだったために、友人とは面識が無いはずだ。

 その疑問を伝えると、友人は私を指差しながら、

「きみという共通の人間が存在しているではないか。我々は、きみを介して親しくなったのだ」

 友人がそのような言葉を吐くと、彼女は頷いた。

「あなたは、自慢するかのように話していたではありませんか。その情報から、彼がどれほど良い人間であるのかを知っていたために、即座に親しくなることができたのです」

 私と親しい人間同士が親しくなることは良いことである。

 そして、眼前の友人ならば、彼女の新たな恋人としてこれ以上相応しい人間は存在していない。

 私の言葉に、二人は笑みを浮かべた。

「そのような関係ではありません。既にあなたとの関係が終焉を迎えたとはいえ、私が心から愛した人間は、あなただけですから、他の男性に身体を許すことはありません」

「彼女は確かに素晴らしい女性だが、きみが愛した女性に手を出すほど、私は零落れてはいない」

 其処で、私は安堵した。

 安堵してから、私が未だに彼女のことを想っているのだということに気が付いた。

 そういえば、私は何故、彼女と別れたのか。

 思い出そうとするが、思い出すことができない。

 まるで、赤子の頃の記憶を思い出そうとしているかのようだ。

 どれほど考えたところで、彼女と別れた理由を思い出すことができなかったために、私は正直に問うた。

 その言葉に、彼女と友人は目を丸くした後、神妙な面持ちと化した。

 そして、彼女は告げた。

「我々とあなたは、今では住んでいる世界が異なっているからです」

 その言葉を聞いて、私はようやく気が付いた。

 何故、彼女と友人が数十年前の姿で私の前に現われたのか。

 それは、二人がその年齢でこの世を去っていたからだ。

 そして、この世の存在ではない二人が私の前に出現した理由は、私を同じ世界へ連れて行こうとしているためなのだろう。

 寝たきりとなってどれほどの時間が経過したのかは不明だが、私にもようやく迎えが来たということか。

 私がそのことに気が付いたことを察したのだろう、彼女と友人は、私に手を差し出した。

 その手を掴んだと思ったときには、私もまた、かつての若々しい姿と化していた。

 振り向けば、寝たきりの老人の姿を見ることができる。

 生命活動が終焉を迎えたことは残念だが、見知った二人と再び時間を過ごすことができるのならば、それも悪くは無い。

 我々は、揃って家を飛び出した。


***


「死後もこの家に居座って新たな住人たちを脅し続けるなど、やはり碌でもない人間だったということですね。別れて正解でした」

「きみの選択は、常に正しい。これで、ようやくこの家を処分することができる。しかし、何故彼は、老人のような姿と化していたのだろうか。この世を去った際の年齢を考えると、まだまだ先の話だったはずだ」

「恋人が友人に奪われ、仕事も失い、厄介な人間たちに借金をし続けた末に自らの意志でこの世を去るという人生を思えば、全てを忘れたいと望むことは、理解することができます。ゆえに、何もかもを忘れたとしても違和感の無い老人に、姿を変えたのでしょう」

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空谷の跫音 三鹿ショート @mijikashort

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