第80話𓂋𓇋𓈖𓈖𓇌〜輪廻〜
一体何が起こったのか、アヌビスがその状況を把握する前に蝋燭の灯りが再び辺りを照らした。
「ここは一体……」
ぼんやりと視界に映ったのは、見知らぬ部屋だった。光の届かない、まるで地下のような場所。部屋の奥に小さな祭壇を目にし、アヌビスは吸い寄せられるようにゆっくりと近づく。
「それに触れてはいけません」
突如響いたその声にアヌビスははっとして足を止める。
聞き覚えのあるその声にアヌビスは自身の記憶を手繰り寄せ、そして否定する。
いや、彼はすでに——。
振り返った先に、人影がぽつりと立っているのが見えた。淡い火に照らされたその顔はなまじ白く光って見える。
「エゼル……なのか? お前、死んだ筈じゃ……」
彼はあの時確かに息を引き取った。アヌビスの目の前で。だがそこにいるのは間違いなく彼だった。夢でも見ているのではないかとアヌビスはその目を何度も瞬かせる。
「ええ……。私は一度死にました。ですがあの男を殺すまで死んでも死にきれない」
「あの男? セトの事か? 奴ならもう——」
「違いますよアヌビス様。私が本当に憎んでいるのはこの男です」
暗闇から投げ出された何か。縄で全身を縛られたその姿はまるでミイラのようだった。だが防腐処理はされておらず、皮膚は爛れ、全身から腐臭が漂う。もはや性別すら判別のつかないその遺体をアヌビスはじっと見つめる。
「驚かないようですね。さすが、お父上をミイラにされただけあって慣れていらっしゃる」
「これは一体何の真似だ? こいつは……」
「私はこの男の魔の手から貴方をお守りしたいだけです。穢らわしいこの男の」
その顔にいつもの笑みはなく、遺体を見つめるその目には侮蔑の色が浮かんでいた。
「噂では彼が神官殺しの一端を担ったそうじゃないですか」
「待て。それはつまりこの遺体は……いや、だが何故腐敗が進んでいる? 俺は確かに——」
これが彼の遺体だとしたら腐敗している筈がない。彼の遺体は正真正銘、自分が防腐処理を施し、ミイラにしたからだ。
「私は彼の遺体を掘り起こし、破壊してアアルの野への道を断とうとした。ですが彼はすでに神として転生を終え、新しい肉体を授かっていました。人間としてのその体はすでに腐敗していたのです」
「人間が神になっただと? そんな話聞いた事がない」
「その祭壇は神となったメリモセが祀られたもの。祈りの力を利用して、彼を神へとのし上げた」
「目的は? 一体誰がそんな事……」
「ラーだ」
エゼルとは明らかに違うその声にアヌビスは振り返る。
「お前は……」
「ラーホルアクティ。ラーの息子だ」
そこでアヌビスは彼の正体とこれまでの経緯を知る事になる。彼から全てを聞かされ、その心に燻っていた数々の疑問がようやく解消された。
「つまり俺達は三人兄弟だったと、そういう訳か?」
「そういう事だな」
アヌビスはその事実を冷静に受け止める。今更何を聞かされたとしても驚きはしない。
「父が俺の体を器としていた事で、俺はごく自然に己の体を取り戻し、ラーとして振る舞う事でその目的を探る事ができた」
「この世界の破壊と創造。クヌムからそう聞いたが」
「確かにその目的は潰えた。だが父の策略はそれだけじゃない」
「……どういう意味だ」
彼はアヌビスをまっすぐ見据え、そして告げた。
「父はまだ生きてる」
絶望的な響きを纏ったその言葉はアヌビスの心に深く突き刺さる。まるで重りでも付けられたような倦怠感が全身を襲った。
「父の目的は自分に代わる新たな神を創造する事。そしてその体を乗っ取り新たな神として生まれ変わる。だが弱体化した今の父の力では人間を祀り上げる事でしか神を創造する事ができなかった」
「そこで白羽の矢が立ったのが神官達を先導したメリモセだったという訳か。……だがホルスが奴の心臓を潰した。もはやその魂が宿る場所はない」
「魂は一つとは限らない。昔から計算高い父は常に複数の策を用意していた。多少のトラブルは見越していた筈だ」
「まるでゴキブリ並みのしぶとさだな。で、もう一つの魂はメリモセの体の中にあると」
「恐らく」
「では、彼自身の魂は一体どこに?」
二柱の会話に割って入るように、すかさずエゼルが口を開く。
「……すまない。父の意図を探っていただけでそこまでは調べられなかった。他の誰かに宿っているのか、消滅したのかも分からない」
アヌビスはその場にしゃがみ込み、無惨に横たえるその遺体を見つめる。
「死して尚、安らぎを得る事なく他人に利用される、か。メリモセ、お前はそんなに業の深い男だったのか?」
その様子を複雑な表情で見つめるエゼル。だが目の前に横たえるこの男の裏の顔を晒そうなどとは決して思わなかった。その事実は彼を傷つける事になるからだ。
ただこの男の存在をこの世から抹消できればそれでいい。エゼルはそう思っていた。その為には彼の魂を探し出さなければならない。この体が消滅するその前に。
エゼルは足元で蠢く鼠を鷲掴みにすると忌々しいとばかりに暗闇へ放り投げた。
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