第72話𓋴𓍢𓎡𓍢𓇋~救い~

 ヘリオポリスの町を朝日が照らす。

 陰湿な牢の中に一筋の光が差し込み、アヌビスはうっすらと目を開けた。


 夜明け。もはや死を待つだけのアヌビスにとってそれは絶望でしかなかった。その心境とは裏腹に窓から見える外の景色は信じられない程に美しい。


 地下に幽閉されていた筈だが、知らぬ間に別の牢へ移されたのだろうか?

 そんな疑問が脳裏をよぎったが、アヌビスはもはや考える事をやめた。あれからエゼルは姿を見せず、計画は破綻し救いの手もない。


 あの男の事だ。自分を裏切り今も何食わぬ顔であの男に仕えているに違いない。だが今更彼を責める気にはなれなかった。あの男を信用した自分が悪いのだ。


 ならばせめてこの美しい景色を目に焼き付けておくべきだ。そう思ったがこんな時に限って視界が滲む。


 復讐に囚われ、その仇を打つどころか弟まで死なせてしまった。冥界ドゥアトで父に何と言えばいいのだろう。そう思った途端、堪えていた感情が一気に溢れ出す。

 

「最後の朝日は拝めたか?」

 ふいに檻の外から聞こえるそいつの声は嬉々としてアヌビスの心をかき乱す。セトが檻の鍵を開け、繋ぎ止められた鎖を外すと、アヌビスは気づかれぬように涙を拭い、淡々と立ち上がった。重い枷を引き摺りながら部屋の外へ出るとそこには目を疑う光景が広がっていた。


「……お前」

 そこには壁に磔にされ瀕死状態のエゼルがいた。

「裏切り者同士、ここで最後の別れを惜しむといい」

 セトはそう言って颯爽と部屋を後にする。


「私とした事がヘマをしてしまいまして。お力になれず申し訳ありません」

「どういう事だ。お前は……」


 この会話にも聞き耳を立てているだろう事は二人とも分かっていた。エゼルはその足元に隠し持っていた何かをこちらに蹴って寄越した。アヌビスはそれを拾い上げ、その意図を探るように彼を見つめた。その顔がこっちに来いと告げている。アヌビスは何か言いたげな彼の顔に耳を近づけた。


「私はここまでのようなのでせめてもの餞別です」

 小声で言う彼に促されアヌビスがその袋を開けると、中には小さな鍵が入っていた

 

「その鍵が何の鍵か、貴方ならお分かりでしょう。それを貴方に託します。まだ諦めてはいけません。やられたら必ずやり返すのが貴方でしょう?」

 どうやって手に入れたか定かではないがこれがあれば奴を罠に嵌めることができるかもしれない。アヌビスは彼から離れ、会話を続けた。


「何故俺の味方をする?」

 アヌビスが問うとエゼルは力なく笑った。

「今更その質問ですか。でもまあ最後なのでお話しましょう」

 エゼルは小さく息を吸い、やがて覚悟を決めたようにその心の内を吐露し始めた


「貴方と同じですよアヌビス様。私も陛下を憎んでいた内の一人です。と言っても背景は貴方ほど壮絶なものではありませんが」

 それからエゼルは自分の半生について語り始める。


「下界で落ちこぼれだった私は周囲の者を見返す為、天界への昇格を望みました。己の人生を懸けて修行に励み、ようやく天界へと召し上げられたのです。ですがその為に私は全てを犠牲にしました。愛も、金も、そして欲望の全てを。何かを失わねば欲しいものは手に入らない。当時の私はそう信じて疑わなかった。捧げれば与えられると人は言います。でも実際はそうじゃない。持っている者は何を犠牲にすることなく始めから全てを持っている一方で、与えられぬ者は何を捧げた所で一生恵みは得られないのだと。ここに来て私はそれをまざまざと見せつけられました。世の中には何一つ失わず全てを手に入れる者がいて、彼には一生敵わないという事を」

「それでセトを憎んだという訳か」

「ええ、単なる嫉妬です。結局、それを覆す事は叶いませんでしたが」


 この男の野望はどこまでも大きくそして無謀なものだった。もし彼が神の代わりこの国を治めていたら一体どうなっていただろう。そんな取り留めのない事を考えてしまう自分が不思議だった。


「せっかくなのでもう一つ私の秘密をお教えしましょうか」


「じゃあお前は父の――」

 全てを話し終えた時、エゼルはすでに息を引き取っていた。時々自分について知ったような口を利くのも、あの仕草を知ってたのも、その正体を知れば理解できる。アヌビスは託された餞別を握りしめ部屋の外に出た。


「別れは済んだか」

 待ち構えるように壁に寄りかかり、笑みを浮かべるセトを一瞥し、アヌビスは歩き出した。


「どうした? 外に出るんだろう?」

 公開処刑するつもりなら屋外以外あり得ない。きっと大層な舞台が用意されている事だろう。アヌビスに促されセトは笑みを絶やさぬままそれに続く。歩を進めるごとに迫る死へのカウントダウン。一発逆転の機会をアヌビスは虎視眈々と狙っていた。




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