第45話 𓎡𓇋𓍯𓍢𓂧𓄿𓇋~Heads or tails~

「母上、父上はいつ帰って来られるのですか? あ、あの、ごめんなさい。えっと……」

 息子は私の顔を見て何かを察したように俯いた。

 

「胸に手を当ててごらんなさい」

 私がそう言うと彼は戸惑いながら自分の胸にそっと手を当てる。


「ここに心臓イブを感じますか? 姿は見えずともそこに宿っているのです。父上の生命力カァが」


「ここに、父上が?」

 戸惑いつつ、顔を綻ばせる息子の姿を見て、私は思わず笑みを溢す。


「今はまだ分からないかもしれません。でもいつかその意味を理解する時が必ず来ます。貴方が将来立派な神になればあるいは、その姿を見せてくれるかもしれませんね」


 私の言葉に彼は花のような笑顔を咲かせて言った。


「りっぱな神さまになります! 父上が驚くくらい!」


 今でもその笑顔が頭にこびりついて離れない。本当の父親は他にいるのだと、私は最後まで口にすることが出来なかった。


***


「お前を憎み、殺そうとしている俺を解放してお前に一体何のメリットがある? まさか、情が湧いたとでも?」 


「悪いかよ」

 愚直すぎるこの男にプライドはあるのだろうか。ホルスの言葉に面食らった彼はしばし押し黙る。散々苦しめられ、瀕死にまで追いやった相手に情を抱く心理が分からない。その清々しいまでに突き抜けた態度が彼の調子を一層狂わせた。


「お前が救いようのない馬鹿だという事は分かった。だがただの半神であるお前にそんな能力があるとは思えない」

 

 図星だった。彼の言う通り今のホルスにそんな力はない。だが解放するというその言葉に嘘はなかった。彼を取り巻く環境、その悪意が彼を闇に落としたのだとしたら、その呪縛を解く鍵は一つしかない。


 真実を知りなさい。


 腕を貫かれ瀕死の危機に陥った直後、その脳裏に響いた言葉だ。そしてそれが合図であったかのように全身が修復を始め、失明の危機にあった右目も光を取り戻したのだ。


「トトが言ってた。右目、つまりお前の目は破壊を、そして左目は回復を表すって。父上はこの左目をウジャトの目と言った。彼女にも会ったんだ。ここで」

「馬鹿な。ここは外部の者が易々と入り込めるような場所じゃない。一体どうやって――」


「ようやく目覚めたようね。ウジャトの力が」

 会話に割って入るように背後から女の声が響く。振り返ったその先にいたのはウジャトそのひとだった。


「何を驚いているの? 呼んだのは貴方でしょう」

「まさか本当に現れるとは思わなくて。一体どうやって……」


 ホルスはメヘンの扉の前で別れた筈の彼女の姿をまじまじと見つめる。


「左目の力が目覚めた貴方と私は意識を共有する事が出来る。そしてこれは私のバァよ。肉体はすでに消え去ったわ。何年も前にね。実体を持たぬが故にこの冥界ドゥアトも自由に飛び回ることが出来るのよ」


「じゃああの時俺が見たのも……」

 その問いに彼女は静かに頷く。


「俄かには信じ難いな。|肉体もなしにバァが存在し続けられるのか?」


 その疑問を投げかけたのは他でもない、この冥界ドゥアトで同じ境遇に置かれた彼だった。


「私も貴方と同じ。ホルスの目をバァの拠り所としてその存在を維持してきた。この能力と共に先王の息子である貴方に望みを託す為にね」


「じゃああんたはここに閉じ込められてるって訳じゃないのか?」

「私は自分の意志でここにいる。もちろん、殺されたのは本意ではないけれど」


 彼女は小さく息を吐き、そして語り始めた。


「王はいつか自分が殺される事を予知していた。だから託した。私やセベク、息子であるホルスとアヌビス、そしてラーホルアクティ、貴方にもね」


 突如視線を向けられ、困惑する彼にウジャトはふっと微笑みかける。


「何故だ。俺はオシリスと血の繋がりはない。あいつにとって俺は忌むべき存在。託されたものなんてない」

「いいえ。彼は確かに言ったわ。自分の身に何かが起こった時、国の命運を皆に託すと。トトがこの場所を作ったのは貴方の為。ラーの支配から貴方を遠ざける為よ」

「あの男にそんな義理はない。まさか、それもオシリスが命じたと?」


 ウジャトは首を振る。


「貴方をここに閉じ込めたのは誰?」

 そんな筈はない。否定するその心を射抜くようにウジャトは彼をまっすぐと見つめる。


「彼女は確かに貴方を愛していた。――だから殺した」

 相反する二つの言葉。真意を掴みかねた彼は眉をひそめ、再び彼女が話し始めるのを待った。


「イシスはラーが私欲の為、貴方を利用しようとしている事を知り、知恵の神であるトトに助けを求めた。けれど相手は国家神。強大な力を持つ彼から逃れる最も確実な方法は、貴方を如何なる神も立ち入る事の出来ない領域に隔離する事だった」


「でも、その為に殺しちまったら元も子も……」

 ホルスは思わず口を挟む。


「ここが本物の冥界ドゥアトと違うのは、いくつもの試練の先で最後に行われる裁判がない事よ。通常冥界ドゥアトの王となったオシリス様の判決により死者の行く末が決まる。アアルの野か、あるいはアメミットに心臓を喰われ、暗闇に葬られるか」

「それは天界に戻る余地があるという事か?」

「肉体が残っていればね」

 

 その言葉に彼は落胆した。


「イシスはいつか貴方を天界へ呼び戻す為にその遺体を大切に保管していた。それは事実よ。オシリス様が殺されたあの日、セトは悪行の限りを尽くした。人間も神も自分に逆らった者は全て抹殺し、遺体を焼き払った。その肉体と心臓を失った多くの者がアアルの野理想郷への道を絶たれ闇へと葬られたわ」


「じゃあお前も――」

「ええ。私もあの時殺された内の一柱。でも貴方と同じくホルスの目を通してそのバァだけはずっとこの世に留まり続けていた。イシスに代わり、この事実を貴方達に伝える為に」


 ウジャトは彼をまっすぐと見据えたまま、諭すように語り掛ける。


「貴方が自分の運命を呪う気持ちは痛い程分かる。けれど貴方は愛されていた。母親はもちろん、血の繋がりのないオシリス様にも。貴方は幼少期の自分の記憶ですら疑うというの?」


 記憶の中にある二柱はいつも微笑んでいた。しかし自身の出生、その事実を知った事で、それらが全て虚構だったのだと絶望した。自分を殺したイシス、利用しようとしたラー。それが紛うことなき愛情であると信じるに値する事実が何一つなかったのだ。


 何故、と彼は呟く。

 数多の感情が混ざり合い、零れた一言は自身の感情をさらに高ぶらせた。


 ずっとオシリスという父に憧れていた。幼少期の記憶しかないが、その存在は大きく、彼が姿を消してからも輝きを増すばかりだった。それがセトに殺され冥界ドゥアトに下った故だったのだと、その事実を知った時には自分もすでに殺されここにいた。


 もし彼らの愛情が嘘偽りのない本物なのだとしたら――。


「お前も、父上の事が好きだったんだろ?」

 ホルスが発したその言葉を彼は否定出来なかった。


「……生きていて欲しかった。例え愛されていなくとも俺の憧れた偉大な父は俺にとって心の支えだった」

 

 柄にもなく素直な感情が溢れるのは、真実を知ったからに他ならない。だが隣にいるこの男。彼のせいでもあるとラーホルアクティは思った。いつの間にか感化されたその心は軽く、もやが晴れたように澄み切っている。


「決まり。一緒にセトを討ち倒す。これでいいだろ?」

「勝手な事を言うな。俺は――」

「はいはいもういいから。そういう素直じゃねえとこアヌビスっぽくて面倒くさい」


「……なら最後に一つだけ。知りたがっていた情報をお前にやろう。これは俺なりの懺悔のつもりだ」




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