第14話 𓂧𓄿𓋴𓋴𓇋𓃭𓇋𓍢𓏏𓍢〜脱出〜

「逃げるぞ」

「は? ここまで来て逃げる訳——」


 しかしその言葉を遮るように地響きが再び二人の鼓膜を揺らす。


「この宿舎はもうじき崩れる。お前が手を下さなくても手負いにはなる筈だ」

「そうじゃなくて! 俺はあいつから話を聞く為に——」

「とにかく話はここから逃げ切ってからだ。このままじゃ俺達まで巻き込まれる」


 ホルスの言葉を遮ってアヌビスはキオネを呼び出す。普段より大きく見える彼女は二人に背中を差し出すように低く屈んだ。二人が騎乗するとキオネは影から影へ飛び跳ねながら、まるで影踏みをするかのように移動する。


 まるでこうなる事を予期していたかのような手際の良さにホルスは怪訝な顔でアヌビスを見た。


「まさか、ここが崩れるのを知ってたのか?」

「——ああ。これは俺が意図的にやった事だ。建物の核となる柱、それらを内面から意図的に脆弱化させ、倒壊させる為には相応の時間が必要だった。あの時お前が現れなかったら、策も虚しく殺されていただろうな」


 礼を言われているのだろうか。だが当然彼のやった事は決して褒められるものではない。それをさも当然のように告げたアヌビスの態度にホルスは若干の違和感を覚えた。


 それも彼の一部だと言ってしまえばそれまでだが、アヌビスは時々、自分の知っているのとは違う一面を覗かせる瞬間がある。その引き攣ったホルスの顔をアヌビスは冷めた目で見つめた。


「安心しろ。この宿舎にはもう誰もいない。あの女から逃げる為に手段など選んでいられないだろう」

「ちょっと待て。いないってどういう事だよ?」


 狐に摘まれたような顔のホルスにアヌビスは今まで起こった事の全てを話して聞かせた。


「俺がいない間にそんな事が……」

 ホルスが事情を把握したところで、今度はアヌビスからの尋問が始まった。ホルスの身に一体何が起き、どうやってここへ辿り着いたのか。その一部始終を事細かに聴取されたが、ホルスは川の中で父と出会った事、そしてその約束だけはどうしても口にする事は出来なかった。


 宿舎から無事脱出した二人が後ろを振り返ると、言わずもがなそこには無惨な光景が広がっていた。瓦礫と化したそれらを呆然と見つめながら、ホルスはそっと呟く。


「あいつ、大丈夫かな」

 その言葉にアヌビスは耳を疑う。

 まさか、あの女を心配しているのか?


 だがホルスがセクメトを心配する理由は何となく分かった。それはひとえに彼女が『女』だからだ。女心など微塵も理解出来ない癖に、そういう所は何故か硬い。


 甘い、とアヌビスは思った。戦争とは弱さを見せた方が負けだ。敵に情けをかけた瞬間、勝利は一瞬にして崩れ去る。命の駆け引き、その極限の状況において男も女も関係ない。ホルスはそれを分かっていないのだ。だがアヌビスにはそれ以上に知らしめたい事実があった。


「あの女が何をしてきたか、そして俺達に何をしたのかお前は分かってない。……来い。今からそれを見せてやる」


 そう言って歩き出したアヌビスの周りをホルスの羽が再び取り囲んだ。


「何のつもりだ」

 突如行く手を阻まれたアヌビスは不機嫌そうに後ろを振り返った。


「何ってさっきまでまともに動けなかった奴が無理すんなって。霊力もだいぶ奪っちまったし、キオネを呼ぶのだって限界だろ? 行きたい所があるんなら俺が運んでやるからさ」 


 勿論、その言葉に他意はなくホルスは彼の体を本気で心配していた。しかし冷静なようで負けん気の強いアヌビスにとってそれは煽られているのと同じなのだ。


「神殿に戻るだけだ。お前に運ばれるくらいなら自分で歩く」


 そう言って無理やりこじ開けようとするアヌビスをホルスは仕方なく解放する。しかしひらけた視線の先にいるホルスの顔は不安げで、まるで子を案じる親のような顔をしていた。


「……おぶってやろうか?」

「いい!」



 母の神殿に戻り、ある部屋へ案内されたホルスはその光景に目を疑う。目の前に青白い顔で横たわっているのは、幼い頃母に代わってよく世話をしてくれた神官の1人、メリモセだった。首に深い傷を負い、それがそのまま致命傷となったのだろうか。しかし壮絶な最期を遂げたであろうその顔は不思議と安らかで、微かに微笑んでいるようにも見える。悲しみに暮れるホルスにとってはそれが唯一の救いだった。


「メリモセはセクメトに脅されて裏切り者にされた挙句殺された。命を落とした所で同情するような相手じゃない」


 ホルスは俯き、消え入りそうな声で呟く。


「……お前の言う通りだ。同情なんかするべきじゃない。けど……悲しそうな目をしてたんだ。お前と同じ——」


 俺が、あの女と同じ……?

 言いかけて、ホルスは慌てた様子で訂正する。


「別にあいつとお前を一緒だって言ってる訳じゃ……。そ、そうだ。そういえばこれ」


 話題を切り替えるようにホルスが何かを差し出す。アヌビスはその手に握られた剣に視線を移した。


「俺に修行してくれたクヌムとセべクからお前にって。父上の形見だって」

 その言葉にアヌビスは目を見開く。


***


「その剣はアヌビスにやってくれ」

 

 修行を終え、その一部始終を見ていたクヌムがやっと口を開いた。


「ホルスにではなく、ですか? それにアヌビスというのは——」

「俺の兄だ」


 戸惑うセベクにホルスがすかさず答える。


「それを使いこなすのに適任はあいつだ」

「そんな切れ味の悪そうな剣もらってもな。あいつ結構こだわりあるし」


 あの人形を真っ二つにしたせいか、明らかに刃こぼれを起こしているその剣は耐久性の面から見ても、アヌビスが欲しがるような代物ではない。


 継承者が自分ではなかった事に若干拗ねているホルスにセベクはくすりと笑って石製の椅子の前に立った。


 無駄のない動きで振り下ろされた刃。それを見たホルスは絶句した。到底切れるはずもない石の椅子がまたもや目の前で真っ二つに割れ、鈍い音を立てて崩れ落ちたのである。


「最高の切れ味じゃありませんか」

 セべクは貼り付けたような笑みを浮かべたままホルスの方を振り返って言った。そして彼が握る剣を見てホルスは更に驚く。その刃に先程のような刃こぼれは見当たらず、まるで時を戻したかのように綺麗な様相をしているのだ。


「オシリスから受け継いだ剣だ。そこらへんの剣とは訳が違う。ただ振り回すだけなら、確かに刃こぼれした剣と何ら変わりはねえが、霊力を注ぎ込む事でその切れ味は岩をも切り裂く。欠けようが折れようが、霊力でいくらでも修復できるしな。まさに使い手の力量が試される剣って訳だ」


 殺傷力はないと言ったのもあながち嘘ではなかったのだ。そのさじ加減も使い手次第という訳か。


「他にもやれる事は山程あるが、まあ自分で試してみる事だ。とにかく、使い手次第で戦術は無限に広がる。頭の切れるあいつならこの剣を使いこなせると思ってな」


***


「と、いう訳だ」

 ホルスが事の成り行きをざっくりと説明すると、アヌビスは神妙な面持ちでそれを受け取った。そして目の前で眠るように横たわるメリモセに再度目を向ける。


 死んでいった者達の為にも、強くあらねばならない。例え大切な何かを失う事になっても、心乱す事なく、その瞬間を静かに待つのだ。


「メリモセをアアトヘ送る。お前も手伝えホルス」

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