第16話𓎡𓇌𓏏𓍢𓃀𓇌𓏏𓍢~決別~

「……これが俺の忠義の証です。」




「まさか、本当にやるとは。これがあのオシリスの息子だとは到底信じられんな。」


 セトは目の前の惨劇には目もくれずアヌビスを見た。


 しかしその顔からは何の感情も読み取れない。




 ポタリ、と床に落ちる紅。


 父の剣だとホルスは言った。

 その剣をアヌビスは今しっかりとその手に握っている。

 

 

 切っ先から滴り落ちる血の臭いが鼻孔を刺激した。


 堪らなく不快だ。

 

 それと重なり合うように心に黒いシミが広がっていく。


 心が闇に染まっていくこの感覚。

 何物にも形容しがたいこの気持ちを他の誰も推し量る事など出来はしない。


 目の前に横たわる女の姿を見た瞬間アヌビスは思った。



 ああ、もう終わったのだ。

 自分はもう決して戻ることは出来ない道を歩き出したのだと。





***



「……それは本当ですか?」

 

 アヌビスの行方を探す最中さなか、イシスはある噂を耳にする。


「ええ。私達は普段バステト様の身の回りのお世話をさせて頂いておりますが、確かにそう言っておられました。」


 彼女らの話ではセトの神殿に入っていく眷属の姿をこの神殿の主であるバステト神が目撃したと言うのだ。


 真実を知り、一度神殿を後にした筈のアヌビスが何故またあの神殿に出向くのかイシスには分からなかった。


 何か理由があるにせよ考えたくもない。

 

 ——そんな事ある筈もないと。



「……それは、確かなのですか?」


 にわかには信じがたいその話にイシスは疑いの目を向ける。


「バステト様は気高い猫の化身ですから、そういう者の気配には人一倍敏感なのです。そのバステト様が言うのですから間違いありません!」


 神官は主を疑われた事が余程気に障ったのか、ムキになったように言った後、我に返ったように頭を下げた。


 どうやら目の前にいるイシスも同様に神である事を忘れていたようだ。


 それほどまでに主を慕っている神官との絆を目の当たりにし、イシスは微笑ましく思うのと同時に悲しさがこみ上げてくる。


 殺され、あるいは消息を絶った神官達。

 そのどちらもイシスにとってかけがえのない存在だった。


「心配したバステト様はそれから数日間神殿の外に見張りまで付けてその様子を伺っていた様なのです。でも——。」


 神官はイシスの表情を伺う様に仰ぎ見た。


「何ですか? はっきり言いなさい。」


 イシスの言葉にびくっと肩を震わせた神官はおずおずと答えた。


「その後アヌビス様も眷属も一向に姿を見せなかったそうで……。何かあったのではと。」


 イシスの顔に怒りの色が浮かび、神官は慌てて付け加える。


「隠していた訳ではないのです……!バステト様もイシス様にすぐ知らせようとしたのですが例の火事が起こりそれどころではなくなってしまって……。申し訳ありません。」


 神官の慌てた様子にイシスは深いため息をついた。


「駄目ですね…。息子の事となるとつい取り乱してしまって。バステト様にお礼を言っておいて下さいますか?」


 イシスはそう言って踵を返した。


「……イシス様、まさかあの神殿にお1人で乗り込むおつもりですか?」


 その問いにイシスははっきりと答えた。


「当然です。これは私達親子と、兄弟の問題なのですから。」





***



「険しい道のりってこういう事だったのかよ!」


 背中にベスを背負いながら果てしなく広がる砂漠を駆けていく。

 思いのほか原始的な修行にホルスはそう叫ばざるを得なかった。


「当然じゃろう。何をするにもまず体力からじゃ。飛んでばかりいると足腰が弱ってしまうぞ。」


「体力には自信あるけどさ。にしたって重すぎんだろあんた!!」


 ホルスが文句を言うのも無理はない。


 小さな体に反してその重さはおよそ70㎏。成人男性程の重さだ。


 といっても普段からこのように重い訳ではなく、彼はその体重を自在に操る能力を持っていた。


 しかし侮るなかれその能力は使い方次第で物凄い威力を発揮する。軽い体で相手の体に飛び乗って、圧死させることも出来るのだ。


「この重さに耐えられんようでは神など到底相手に出来んぞ。」


「で、あとどのくらいかかるんだ? その修行の相手までは。」


 幸い、まだ息は上がっていない。

 目的地を把握できれば気持ちにも余裕が出来るだろう。


「うーむ。分からんな。まあこの速さなら1日あれば着くじゃろう。何、お主も一応神の端くれなのじゃから休まんからといって死ぬことはあるまい。」



「……そうかよ。」


言いたい事は山ほどあったが、ホルスは叫ぶことをやめ体力温存に努める事にした。





***



 セトの神殿へ再度足を踏み入れたイシスは、その光景に目を疑った。


 ——眩暈がした。


 力なく崩れ落ちるイシスにアヌビスは冷ややかな視線を送る。


「遅かったですね。母上——いや、裏切者イシス。」


 全身に返り血を浴び平然と佇むその姿は猟奇的以外の何物でもなかった。




「アヌビス…まさか貴方がネフティスを……?」


 その声は自分でも驚くくらいに震えていた。




「だったら何だと言うんだ? 不義を犯し、産まれた子を捨てた母親を憎むのは当然だろう。それを隠してずっと俺を騙してたあんたが、まさか俺を非難するつもりか?」


 アヌビスは嘲るようにイシスを見、そして笑った。


 目の前にいるのは本当に息子なのか?


 そう疑う程にまるで別人のように変わってしまった我が子をイシスはただ信じられないという風に見つめる。



 そしてその沈黙を破るようにセトの笑い声が響く。


「傑作だなイシス。まさか自分の息子が妹を殺すなんて思ってもみなかっただろう?だがこれが現実だ。己の罪を悔いる事だな。」



「一体どの口がそれを言うのかしら。……お前は関係ない黙っていろ!」


 瞬間、セトの体に衝撃が走る。


 壁に吸い寄せられた彼の体はまるで磔にされたように動かなくなったが、当の本人は特に気にする様子もなく鼻で笑った。


「気が短いのはお互い様だなイシス。俺は蚊帳の外という訳か。」


 セトはやはり動じない様子で目の前の親子を観察するように見つめる。



「……その剣でネフティスを殺したのですか?」


 アヌビスが握るその剣にイシスは見覚えがあった。


 かつてオシリスがこの国の王についた時、その祝いとして自分が贈ったものだ。

 煌びやかな装飾を好まないオシリスに贈った飾り気のない素朴な剣。


 忘れる筈もない。


 しかし今その聖剣は血で汚れ、その輝きを失っている。



「ああ。昔は父の剣だったかもしれないが今は俺のもの。どう使おうと俺の勝手だ。」


 アヌビスは剣を振り、忌々しいとばかりにその血を払う。


「ナイルの守護神クヌムが俺にふさわしい剣だと言ったそうだが、まさに。この剣は手に良く馴染む。」



 その剣を今度はイシスの方へ向けてアヌビスは言った。


「殺されたくなければ今すぐここから出て行け。……そして二度と、俺に関わるな。」


 冷たく突き放すように放たれた言葉はイシスの胸を抉るように響いた。




 氷のように冷ややかなその視線はもはや肉親に向けられるものではなかった。




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