第19話𓎼𓇋𓅱𓄿𓎡𓍢〜疑惑〜

『ほら 急いで

恋しい女のところへ 行きなさい

砂漠の中を跳ねるガゼルの

足が 揺れ動き

四肢が折れ曲がるように

狩人と犬どもに追い立てられて

恐怖に襲われるときの』


***


 王宮の影に隠れるようにして佇む古びた建物。長年吹き付ける砂塵の影響でその半分以上が砂に埋もれている。まるで存在自体が否定されているかの如く有様だが、れっきとした王宮の一部である。


 手入れもされず荒れ放題。この離れに一切の生物が寄りつかなくなった理由はその外観のせいではない。夜毎聞こえてくる女の声。泣き声とも歌声とも噂されるそれが全ての根源だと言えるだろう。


 そんな陰湿な空気漂うこの場所にただ一柱、通い続ける者がいた。まるで牢獄のような部屋はひどく殺風景で、昼間だというのに少し肌寒い。


「ネフティス。調子はどう? ちゃんと眠れているかしら」


 イシスはなるべく平静を装い彼女に声を掛ける。その声に反応するように彼女はベッドから体を起こした。


 腕枷が重い音を立てて軋み、か細い腕がイシスの腰に縋りつく。痩せこけた妹を見てイシスは顔を歪ませた。


「姉さんごめんなさい、私……!」

 

 嗚咽を漏らし、泣き喚くその姿を憐れむようにイシスは今にも折れてしまいそうな細い体を抱きしめた。


「……いいのよ。貴方はもう十分苦しんだわ。私はもう大丈夫」

「いいえ! 私は許されないことを……姉さんとあの子を裏切ってしまった……!」


 彼女がこうなってもう何年になるだろう。痛々しいその姿を見つめながらイシスは過去の記憶を呼び覚ます。


 あの日からネフティスの心は完全に壊れてしまった。この枷を解き放ち、全ての責苦から解放してやれたらどんなにいいだろう。


 だがこうして寝台に繋いでいないと時々に暴れて手が付けられなくなるのも事実。彼女の心は繊細で、不安定だった。


 最も恐ろしいのは自ら命を絶ってしまう事。それだけは避けなければならない。それが彼女をここに繋ぎ止める最たる理由、そしてセトを遠ざける唯一の方法だった。


 それ故イシスには彼女を慰める為、こうして時々会いに来て抱きしめてやる事しかできない。イシスは涙でぐしょぐしょになった彼女の顔に手をかざす。すると先程の興奮が嘘のように彼女はゆっくりと瞼を閉じた。


 大丈夫だと口ではそう言っておきながら、その寝顔を見ていると自分の中に未だ彼女への怨念が燻っているのを実感する。実際眠っている彼女の首に手を掛けたことは何度もあった。しかしそんな事をすれば絶対に後悔する。何よりあの子に申し訳が立たない。


 愛憎がひしめき合い、葛藤し、イシス自身もその感情と戦い続けてきたのだ。そして今も——。


 ネフティスをベッドに寝かせたイシスはそっと部屋を出る。


 その時、扉の前に佇んでいた黒い影がさっと通り過ぎていくのが見えた。


「待ちなさい!」


 影はまるで脱兎のように、影から影へ飛び跳ねながら逃げていく。それを追い、走り出そうとしたイシスははっとした。見覚えがある。そしてこの気配も——。


 イシスは顔を覆い、その場に崩れ落ちる。


「……あぁ。気付いてしまったのですね」

 

 イシスは物憂げなその背中をただ見送る事しか出来なかった。


出典元 ボリス・デ・ラケヴィルツ=編 谷口 勇=訳 「古代エジプト恋愛詩集」而立書房 1992年 p70

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