第11話𓅓𓇋𓇋𓂋𓄿 〜木乃伊〜
2人が神殿に戻ったのは明朝。
いつもなら神官達が各自職務につき始める時間だが、当然彼らの姿はない。
イシスも外出中の今、完全にもぬけの殻である。
その有様を茫然と眺めるホルスに、アヌビスは起こった事の全てを話して聞かせた。
メリモセを背負う背中の重みが増したように感じるのは単に疲労のせいだけではない。ホルスにはそれが彼自身の人生の重みであるように感じられたのだ。
二度目の人生は幸せなものであって欲しい。安らかな男の顔を眺めながら、ホルスはそう願わずには居られなかった。
2人は誰もいない沐浴場でメリモセの血や汚れを丁寧に洗い、拭き取った。
半神ではあるものの神が人間の身を清め、また遺体を安置するなど異例である。
しかし状況が状況であり、何より2人が望んだことだ。
しかし問題が一つ。
神官がいない今、この遺体を埋葬出来る者がいない。
そして埋葬する前には当然遺体の防腐処理も行わなければならない。
死者の書(※注)に
ホルスは助けを求めるようにアヌビスを見た。
「……やるしかないか。」
2人は霊安室に行き、遺体を寝台の上に寝かせた。
防腐処理に必要な材料は全て揃っている。
アヌビスはそれを確認するとホルスに言った。
「そこにある鉢全てにこの液体を注いでくれ。」
棚の上に置かれている陶器の鉢は全部で11。ホルスは言われるまま鉢の中に液体を注いだ。
アヌビスは棚から小型のナイフを取り出すと、何の迷いもなく遺体に刃を突き立てる。続いてその切れ目に手を突っ込み、中の臓器を次々と取り出していく。
そしてそれらをホルスの用意した鉢に漬け込むようにして収めていった。
ホルスが声を上げる間もなく、アヌビスは淡々とその作業を続け、心臓だけを残して傷口を閉じる。
エジプト人にとって心臓は肉体、知性、感情の中心であり、来世へと命を繋ぐ鍵であると考えられていたからである。
最後に脳を取り出す作業に取り掛かる。
鼻から器具を入れ、脆い部分から最低限の骨を砕いてそれを取り出した。
そして中の髄液を傍にある砂山に流し捨てる。
最後に鼻から詰め物をして顔を元の状態に近づける作業をする。
これにはさすがのホルスも目を逸らさざるを得ない。中々に凄惨な光景だった。
「……お、終わったのか……?」
ホルスは顔を背けたままそう聞いた。
「ああ。あとはこれらを乾燥させればミイラの完成だ。」
アヌビスは料理のレシピを紹介するかの如く平然とした顔でそう言ってのけた。
「お前、手慣れてんな。何でそんな事出来んだよ?」
「まぁ……見様見真似ってやつだ。」
見様見真似でここまで手際良く出来るものなのか?
それも何の躊躇もなく平然と。
ホルスは疑問に感じつつも、無事に彼を安置出来たことに安堵した。
「とりあえずこれで遺体が腐敗する心配はなくなった。埋葬は神官達が戻ってからでも問題ないだろう。皆、別れも言いたいだろうしな。」
メリモセを安置した後、2人は広間の椅子にぐったりと倒れるようにして腰を掛けた。
どちらともなくため息を漏らし、背もたれに体を預ける。
半神であっても、やはり徹夜は体に響くものだ。しかもあれだけの死闘を繰り広げれば尚更だろう。
まるで死んだようにぐったりと伸びていたホルスが突然何かを思い出したようにあっ、と声を上げた。
「そういや宿舎に向かってる途中、妙なもんを見た。空からだと白い塊にしか見えなかったけど今思えばあれが……。」
言い終わる前にアヌビスが勢いよく体を起こしたので、ホルスは驚いて続く言葉を飲み込んだ。
ハヤブサは夜目が利き、その視力は8.0にも及ぶという。まさにその長所が発揮された発見と言えるだろう。
「位置は? どこに向かってた?」
先程までの疲弊した様子が嘘のように、アヌビスは興奮した様子で矢継ぎ早に質問した。
その威圧感たるや、まるで尋問でもされているかのような勢いである。
「うーん……。正確な位置は分かんねえけど、あれは川より向こうの砂漠地帯だ。ほら近くに採石場があるだろ?あの辺だった。」
「採石場…? 神殿か墓でも作ろうってのか。」
しかし採石や建設などの仕事は神官が行うようなものではない。それらの仕事を請け負うのは大抵、自国の犯罪者か外国人労働者である。
人権のない彼らは昼夜問わず過酷な労働を強いられるのだ。
犯罪者はともかく、外国人というだけで差別されるこの国のあり方には頭を悩ませる所であるが、神は人間のあり方にまで口を出す事は出来ない。
第一それが出来るのであれば人が人を傷つける事はなく、まして戦争など起こり得ないのである。
話が少しばかり逸れてしまった事を反省しつつアヌビスは質問を続ける。
「他に気づいた事は?」
「……いや、特には。」
アヌビスはそうか、と言って糸が切れたように脱力した。
「もう1回空から見てみるってのもアリだな。まだそこにいるかもしんねえし。」
「……そうだな。」
聞いているのかいないのか、アヌビスは眠そうに眉間を押さえた。
「……休憩、するか?」
「……そうだな。」
2人が目を覚ましたのは夕方の事だった。休憩のつもりが随分寝過ごしてしまったようだ。
「俺、採石場に行ってこようと思う。早いとこ連れ戻さねえとあいつに何されるか分かったもんじゃねえ。」
アヌビスは頷き、言った。
「俺はここに残る。母上が戻るまでの間ここを任されたのは俺だ。」
「分かった。じゃあ後でな。」
早々に飛び立とうとするホルスをアヌビスが止める。
「お前には監視役としてキオネを付ける。また失踪されたら困るからな。互いの連絡にも役立つ。」
アヌビスの影から勢いよく這い出できたキオネがホルスの体に溶け込むように憑依する。
「何か今寒気がした…。」
気持ち悪い、喉まで出かかった言葉をホルスは飲み込んだ。
こんなところでまたアヌビスの機嫌を損ねる訳にはいかない。
余計な事はするなだの早く戻って来いだのまるで母親の小言の様な事を永遠と聞かされそうだったのでホルスは適当に返事をし、飛び立った。
神殿を出てしばらくするとホルスはその高度を上げた。その方が全体を見渡せるからだ。
ホルスは目を凝らし、地上を注意深く観察する。
その時一羽の鳥がホルスの目の前を飛び去っていった。間髪入れず鳥の群れがこちらに向かって飛んでくる。
そんなに慌ててどこへ行くというのか。
逃げるように飛んでいく鳥たちにホルスは違和感を覚える。
鳥たちが飛んできた方向に目をやるとそこには信じがたい光景が広がっていた。
「おい、アヌビス! 聞こえるか!」
ホルスは震える声でアヌビスを呼んだ。
「……森が燃えてる。」
(※注)パピルスで作られた死後の世界に行く為の葬礼文書
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます